こまれるようなことになったら、水野はどのような思い切ったことをやり出そうも測られぬ。……頼みとはこのことじゃが、どうか水野より先に捨蔵さまの居所を捜し出して、この書状をお渡しくだされ。……この書状には、そなわらぬ大望《たいもう》にこころを焦すはしょせん身の仇。浮雲の塵欲に惑わされず、一日も早く仏門に入って悠々と天寿を完《まっと》うなされと書いてある。……ここに捨蔵さまの絵姿もあるから、なにとぞ、よろしくおたのみもうす」
「よくわかりました。……つまり、捨蔵さまの居所を捜しだしてこの手紙を渡し、早く坊主になれと言やいいんですね、たしかに承知しました。……それであなたはこれからどうなさる」
「わしは間もなくここで死ぬ。……わしのことにはおかまいなく」
「そうですか、せめて眼をおつぶりになるまでここにいて念仏のひとつも唱えてあげたいというところでしょうが、お覚悟のあるあなたのような方に向ってそんなことを言うのさえ余計。……では、和尚さん、どうぞ大往生なすってください」
「ご縁があったら、またあの世で……」
「冗談おっしゃっちゃいけない……。あなたは否でも応でも極楽へ行く方。手前のほうはてんで当なし。……あの世もこの世も、これがギリギリのお別れです。……では、さようなら」
ピョコリとひとつ頭をさげると、冷飯草履をペタつかせながら、街道の夕靄の中へ紛れこむ。
宙吊女
今夜のうちに千住までのす気で、暗い夜道を国府台へかかる。
右は総寧寺の境内で、左は名代の国府台の断崖。崖の下には利根川の水が渦を巻いて流れている。
鐘ガ淵の近くまでノソノソやってくると、一丁ほど向うで、五人ばかりの人間が淵へ身を乗り出すようにして、忍び声で代るがわる崖の下へなにか言いかけると、崖の下からおうむがえしに、よく透る落着いた女の声がきこえてくる。
なにをしているのだろうと思って、断崖の端へ手をついて女の声のするほうを斜めに見おろした途端、顎十郎は思わず、ほう、と声をあげた。
川霧がたてこめて月影は薄いが、ちょうど月の出で、蒼白い月光が断崖の面へ斜めにさしかけているので、そこだけがはっきりと見える。
蓑虫のようにグルグル巻きにされた一人の女が、六十尺ばかりも切立った断崖へ、一本の綱で吊りさげられてブラブラと揺れている。
さっきから落着いた声でものを言っているのは、一本の綱で宙ぶら
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