いや、承知しました、大丈夫」といって、コン吉が杖にすがりながら垂れ幕の後ろによろけ込んで待つ間もなく、広場の四方の小道からただならぬ人馬の喚声が湧きたったと思うと、火事だ! 火事だ! とわめき立てるバルトリ君を先登にして二十人余りの農夫と一人の憲兵と竜土水の水管車が鉄砲玉のようにテントの中へ駆け込んで来た。

 四、花ならば莟《つぼみ》、ペンギン鳥の若芽。満堂の紳士諸君。どうも運の悪い時は仕様のないもので諸君の素晴らしい水管車がここへ入って来たとたん、火事は諸君の威勢に驚いたものか、とたんにパッと消えてしまったのよ。どうか悪く思わないでちょうだい、せっかくお見えになったのにあいにくなんのお饗応《もてなし》もできませんが、その代り、これから巴里《パリー》の技芸学校出身のペンギン鳥の曲芸をお目にかけますから、どうか見て行ってちょうだい。ときに、諸君は葉巻きを喫《す》うペンギン鳥を見たことがありますか。もしなければどうか後学のために見ておく必要がありますね。そもそもただ今このところへ立ち現われますペンギン鳥は、南極や北極にいるペンギン鳥とペンギン鳥が違うのよ、この先祖というのも、一九二〇年にアムンゼンという人がシャルルマーニュ伯爵に献上したパタシヨン・パタポンという有名なペンギン鳥で、お辞儀もすればダンスもする、金を賭けて骨牌《カルタ》もする、生臭《なまぐさ》ものは一|切《さい》嫌い。鶏《にわとり》の丸焼きだの凝血腸詰《プウダン》などを喰べて、寝るにも起きるにもまるで普通の人間と少しも違わないのよ。それでシャルマーニュ伯爵は大変お可愛いがりになって、ピカピカする燕尾服を着せて夜会のお供をさせたり、野遊びに連れて行ったりしていたのですが、ある日そのパタシヨン・パタポンがむやみにシャンパンを飲んだまま遠乗りに行って、その途中馬から河の中へ落ちて溺死してしまったのよ。屍《なきがら》は泣く泣くモンパルナッスの墓地に葬ったのですが、毎年春先きになると、燕尾服を着たペンギン鳥が一匹ずつ生え出して来るんだよ。ここへ連れて来たのはちょうど今年の春芽を出した奴で、花ならばまだほんの莟《つぼみ》みたいなようなもんだけど、利口なことにかけたら、先祖のパタシヨン・パタポンなんか足もとへも及ばないぐらいなのよ。ラテン語でも哲学でも自由自在にあやつって、真面目《まじめ》な顔をして人をやり込める様子なんか、まるで大学の先生みたいなんだ。オートバイに乗る、テニスをやる、このごろは猟犬に凝って、ポインターやセッターを飼って毎日|蚤《のみ》を取ってやっているんだよ。気ぐらいの高いことはまるで公爵のお嬢さまみたいで、このハンカチの刺繍が気に入らないの、こんな音楽じゃ踊れないなんて駄々《だだ》をこねてばかりいるんだよ。昨日《きのう》などもお風呂をつかっている最中にこの石鹸《シャボン》は臭いからいやだなんて、愚図り出して、そこらじゅう水だらけにして跳ね廻ったあげく、腹を立ててすっかりその石鹸《シャボン》を喰べてしまったのよ。もっとも、気嫌のいい時はピアノを弾いたり、天井に足で字を書いたり、ぞっとするような見事な軽業《かるわざ》をして見せることもあるのよ、どうですか諸君、素晴らしいって、こんな素晴らしいペンギン鳥が他にもう一羽いるというなら、本当にお目にかかりたいくらいだわ。いいですか、いまその稀代《きだい》のペンギン鳥が、あの水槽から現われて諸君の目の前で、奇想天外の曲芸を演じます。なお今晩は諸君をお騒がせした謝意を表するため、オマケ[#「オマケ」に傍点]としてミミイ嬢の有益な農事講話があります。ただ、お断りしておきますが、曲芸の最中に嚔《くさめ》をしたり、あまり強い呼吸《いき》をしたりしないように願いますよ。ミミイ嬢が気を悪くして何もしなくなってしまいますからね。では、これから諸君のお目通りまで呼び出すことにいたします。……ハイッ! みっちゃんやア!

 五、膃肭獣《オットセイ》の口髯に初恋の人の俤《おもかげ》あり。この世の中にミミイ嬢のように立派なペンギン鳥は決して存在しているべきはずのものでない。黒水晶のような眼、絖《ぬめ》のように白く光る胸、しなやかな腕、ヒョイヒョイとこう飛びあがるようなその歩き方は、見る人の胸の中を熱くするような悩ましい様子なんだ。衣装はぎゃるそんぬ[#「ぎゃるそんぬ」に傍点]好みで一日中燕尾服を脱いだことはないが、それがまたよく似合うことといったら燕尾服を着たデイトリッヒなどなかなか及びもつくものではない。朝起きるとまず水風呂を浴びる。ゆっくり爪を磨いて、鰯とバナナの皮を少し召しあがる。それからもし新聞があれば、その上をべたべたと歩き廻って沢山の足跡をつける。気が向けば声をふるわして歌を二つ三つ歌う。あとはたいてい昼寝をなさるとか油虫をつかまえ
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