\しますれば一体山登りなどというものは、もし人間に章魚《たこ》のような吸盤さえあれば、氷の壁であろうと、削岩壁であろうと、実に訳のない事であります。そこで、何か吸盤の代用になるものはないか、と考えて見ますと、実はその手前どもで使用いたしますゴム製のマッサージ器ですな。これは御承知の通り、やや排気鐘《はいきしょう》的な作用をいたしまして、こう、吸盤の面を顔の平面へ吸いつけては離し、吸いつけては離しいたしまして顔面の血行をよくいたします。つまり、これを左右の両手と両足の裏に結びつけまして、キュウ・ペタリ、キュウ・ペタリと岩面に吸いつけながら登るんでございます」
 八、空に蓋《ふた》なし天界への墜落。ある天気晴朗の夏の朝、グラン・ミューレの氷壁の下に勢ぞろいをした六人の人物。なにやら異様な機械を持ち出してしきりにシュウシュウいわしていたが、やがてその中心から、ふらふら二着の潜水着が浮き出した。潜水着の至るところには大きな襞《ひだ》が作られ、それぞれみなはち切れるほど水素瓦斯が詰められていたほか、肩や腰には色とりどりの巨大な風船が、十五六も結びつけられて、グラン・ミューレの壁に沿い、そろそろと
前へ 次へ
全32ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング