ニにしたからそう思ってちょうだい。あんたもまごまごしないで、早く仕度をしたらどう」といいすてたまま、今度は次の間から登山綱《ザイル》を持ち出してせっせと輪を作り、水筒、靴下、油紙といったようなものを、やたらにリュック・サックに詰め出した。コン吉は仰天して、
「うわア、こりゃ情けないことになった。どうしてまたそんな気になったのかね。多分あの吃漢《どもり》の話を真に受けて、アルプス倶楽部に花火をあげさせるつもりなんだろうけれども、君だって、担架《プランキアル》で運ばれて来たあの血綿のような塊を見ないわけじゃなかったろ。氷河へ行けば大きな亀裂《クレヴァス》がある。吹雪は吹く。まるで琺瑯引《ほうろうび》きの便所の壁のように、つるつるした氷の崖なんかがあって、女の子なぞには手も足も出るもんじゃないよ。ねえ、タヌ君、もし雪崩《なだれ》に押し落とされて、下の岩角でお尻をぶったらどうするつもりだね。そんなところへ青痣《あおあざ》をつけて、どうしてのめのめ日本へ帰られるものか。それから僕だって、……これ見たまえ。この僕のガニ股で、どうして西洋剃刀の刃のように狭い氷の山稜《アレート》を伝えるものか。それに僕は、あいにく午年生れで、高いところへ登れば、たちまち目がくらむようにできているんだ。谷底へ落ちてこなごなになってしまってからは、支那人の焼き継ぎでもハンダでも喰っ付きはしないからね。あ、桑原、桑原。……生命《いのち》あっての物種だ、どうか山登りだけは思いとどまってくれたまえ。思いとどまったというまでは、死んでもこれを離さないから」と、リュック・サックにすがってかき口説くと、タヌは、いきなりそいつをひったくって
「なにするのよオ。……チョイト君、君もずいぶんおたんちんね。君がいくらそんな顔をしたって、もうあとの祭りよ。ね、君、コン吉君、ここからモン・ブランのてっぺんまでは、ちゃんと国道がついているのよ。あんまり心配しないでね。……いいかい、コン吉君、よく聞きたまえ。あたしがモン・ブランへ登ろうってのは私事じゃないのよ。……ふらんす・あるまん・あんぐれい、あめりっく・おらんだ・ぽるちゅげえ、と世界中の国々の女の子が、みな一度は登ってるってのに、日本の女の子だけは、みな麓をしゃなしゃな[#「しゃなしゃな」に傍点]散歩して引き上げたってんだから、あたしは、納まらないのよ。ナンダイ! 多寡の知
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