さり》をチョッキの胸にからませた夕月のように赤い丸い顔をした田舎大尽《いなかだいじん》風の老人がのっしのっしと現われて来た。
これが鷹揚《おうよう》に二人の挨拶を受けると、太い葉巻に火をつけて、
「わしが、プロヴァンス闘牛研究会の会長でごわす。ご両所はどういう御用件で」と、たずねた。
「僕たちはですね、一|口《くち》に申しますと牛の学者なんです。世界中の有名な荒牛《トオロオ》を拝見して、そのですね戸籍謄本を作って和蘭《オランダ》の王様に献上しようと思っているんです。それについてはですね、あなたのところの『ヘルキュレス』君を拝見しないことにはお話にもなにもなりませんですからね、それでこうして、第一番序の口にあがったというような次第なんです」と、廻らぬ舌を必死に操《あやつ》りながらこれだけいうと、タヌもそばから、
「でございますから、実物を拝見させていただきまして、できるなら逸話とか出世美談、それから、できますなら、『ヘルキュレス』君の長所短所、そんなところまでうかがわしていただきますと、有難いんですわ。本ができましたら、無代で十冊でも二十冊でも進呈いたしますわ。もしなんでしたら、あなたのお写真なんかも巻頭にかかげたいと思っておりますの。ねえ、いかがですか」
「いやわかりましたじゃ。つまらぬ評判はもうお聞きおよびのことでしょうから、ひとつ、小話になるような逸話を申し上げますじゃ。なんでも一歳二ヵ月の春でごわした。ある日、わしの荘園におった闘牛師《トレアドール》の仕出しが喰らい酔いよって、何を思ったか細身《ほそみ》をぬいてそこらじゅう刺し廻る、ピストルをぶっ放す、どうも危なくて近寄れません。すると、『ヘルキュレス』のやつがいきなりそっちにかけ出してゆくから、ああ、危ないな弾《たま》にうたれはしないか、と眺めていると、囲い場の柵に乾《ほ》してあった牧夫の赤い腹巻をひょいと角に引っ掛けて行って、その闘牛師の鼻っ先で振り廻し振り廻しして、とうとう怪我《けが》もさせずに番屋へ追い込んだというでごわして、へ、へ、いまでもこのあたりの一つ話になっているくらいでごわす」
「ま、お利口《りこう》だこと」
「なんとも驚きいったものです」と、コン吉とタヌは声をそろえて感嘆すると、会長はうわははは、と喉仏《のどぼとけ》も見えるような大笑いをしてから、
「それから、二歳四ヵ月の夏のことでごわした。ニースからポッペ・マリオの一座がやって来た時のことでごわすが、『ヘロデ王と牛』というやつに出演いたしまして、ヘロデ王に叱《しか》られるとべそをかく、褒賞《ほうび》をもらうと押し戴く、ディヤナには色目を使うという工合で、天晴《あっぱ》れ一役をやってのけました。牛の皮をかぶった人間だってよもやあれまではやりこなしますまい。円戯場《アレエヌ》では向うところ敵なし。あいつの角にかかった馬は二百匹、闘牛師が三百人、牛が五百頭。……一|時《じ》は牛も闘牛師も種切れになるところでごわしたわい。最近は右の前足の付けねに腫物をでかして弱っとりますが、なんの、カルグの、アルルの、そこらの病み牛が束になって来たとて、びくともするものでごわせんわい。……いま、ここへ引き出しまするから、とっくりごらんなさるがようごわす」と、いって使童《ギャルソネ》を招いて、何か小声で囁《ささや》くと、やがて牧童が柵の木戸をあけて牛を一匹追い出して来た。
「さ、これが自慢のヘルキュレスでごわす」
二人が振り返って見ると、赤煉瓦色の、まるで駱駝《らくだ》のような奇妙な瘤《こぶ》を背中にくっつけた跛《びっこ》の牛だから、タヌは驚いて、
「あら、でもヘルキュレスというのは、頭から尻尾まで真白な立派な牛だってことですが、……でもこの牛は赤いですわ」というと会長は丸い顔をつるりと撫で、
「なアに、こいつは今朝《けさ》から赤大根《ベットラヴ》の喰いづめで、それにそれ、赤葡萄酒《シャトオ・ヌウフ》の生《き》一本を二|升《ヒドン》ばかりやったのでこんなに赤くなったのでごわす」といった。
五、犬にも徳育、豚にも愛嬌《あいきょう》、されば牛にはご修身。『闘牛学校』という看板のかかったアーチ形の入口についていた呼鈴《ベル》を押すと、出て来たのは、寸詰《すんづま》りのモオニングを着た五尺未満のチョビ髯の紳士はこちらが述べる用向きを途中から引ったくって、
「委細《いさい》承知。みなまで仰言《おっしゃ》るな。つまりですナ、この牛君……牛様に武芸万般を仕込んでぜひともヘルキュレスを闘技場《アレエヌ》の砂に埋葬しようという。……それならば秘策は万事|拙者《せっしゃ》の方寸にありますヨ。なるほど、こう申しては失礼ですが、お子供衆を拝見いたしますと、まだいささか柔弱の趣きですナ。しかしです、貸すに二週間の時日をもってせられるならばです、
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