、いきなり卓のうえの葡萄酒を続けさまにあおりつけ、
「お前もここにいたか。……いや、両先生、ここでお目にかかったのは、アヴェ・マリアのお引合せ! かたじけない!」といった。
三、恨みは深しメリヤスの股引《ももひき》、不具戴天の仇。お話申すも涙の種でがす。この父親といいますのは、近県六市は愚かなこと、アルサス、ルュクサンブウルのあたりまで鳴り響いた天下無双の荒牛《トオロオ》でがんした。一旦、円戯場《アレエヌ》の砂に立ってちょいと嚔《くさみ》をするとヴィル・デ・ポオの小道に砂埃りが立つといわれたものでごぜやした。とりわけて、得意の術というのは、尻尾《しっぽ》の房毛の先で、相手の脇の下をこちょこちょとやる。すると向うは、擽《くすぐっ》たいものだから鼻の孔《あな》を拡げてへらへら笑う、その鼻の孔を角の先へ引っ掛けて相手の平駄張《へたば》るまで円戯場《アレエヌ》のなかを引き廻すんでがす。いや、可笑《おかし》いやら、見事やら、『コルシカの鼻輪』といって、牛|角力《ずもう》を見るくらいの衆なら、今でも噂に出るくらいのものでがす。すると一昨年の夏のことでがした。ちょうどマルセーユの『ヘルキュレス』と顔が合うことになりやした。ところが、ま、お聞きなせえまし、なるほどマルセーユ人のすることだ。その『ヘルキュレス』にメリヤスの股引をはかして出したもんでがす。こちらはそんな巧みがあるとは知らないから、いつものようにこちょ、こちょとやるんだが一向感じない。感じねえわけだ、股引でがす。そこで、さんざ擽《くすぐっ》ておいて[#「擽《くすぐっ》ておいて」は底本では「擽《くすぐっ》っておいて」]、もうよかろうと角の先を鼻の先へもって行って、いきなり引っ掛けようとすると、どっこい! 鼻にはちゃんとコルクの栓がしてあるんでがす。こいつあ弱ったとまごまごしている鼻っ先へ、いきなり韮《にら》臭せえ[#「韮《にら》臭せえ」は底本では「菲《にら》臭せえ」]息かなんかふわアと吹っかけておいて、こっちが目が眩《くら》んでぼうとしているのを見すますと、今度は足搦《あしがら》みにして投げ出して、さんざ踏んづけたうえ、おまけにアンタ、無慈悲にも頭へ尿《ピピ》までひっかけた。まるで暗討《だましう》ちでがす。ああ誰れが何といったとて、これぁ立派な暗討ちでがす。さて、この父親は恥かしい口惜《くや》しいで、まるで狂気《きちがい
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