一日一杯山中を追い廻したことががしたが、……へえ、それではさっそく青い操布《ムレエータ》であしらってせいぜい突撃術とやらの修業をさせることにいたしやしょう。……それにつけても、お二人さんのお話では、ヘルキュレスの奴め、前足に腫《は》れ物ができているということでがんしたが、なにしろ日もないことだし、それ例の読心術の応用で、藁牛《わらうし》の前足に的を付け、そこばかり一心に突かしたら、阿呆《あほう》も一字で、きっとうまくゆくに違えございません」
 これは名案だというので、さっそく藁を束ねて牛を作り、しきりにあとから駆り立てるところ、血の廻りの悪いナポレオンも、ようやく事の次第を了解したと見え、むやみに駆け寄っては突きかけるが、どういう故障かなかなか思う的に行きあわない。
 しかし、コントロールの悪いのは未熟のせい、いずれおいおい上達することであろう。
 おいおい練習も日数を重ね、かたがたタヌは、青唐辛子、山の芋《いも》、珈琲《コーヒー》、蝮酒《まむしざけ》、六|神丸《しんがん》と、戦闘的|食餌《しょくじ》を供給するものだから、ナポレオンはたちまちのぼせあがって両眼血走り、全身の血管は脈々と浮きあがり、その鼻息はもっぱら壊れたオルガンのごとく、首をもたげて濶歩するのを見れば、伝え聞くヘルキュレスと争うクレエト島の荒牛《トオロオ》も思い合わされ、見る目にもものすごいばかりの有様であった。
 八、筒に声あって向うに声なきは多分|空《から》鉄砲。さて、七月十四日は革命記念祭。プロヴァンスにおける盛大なる牛祭《フェラード》の当日となれば、マルセーユからほど遠からぬアルルの大|円戯場《アレエヌ》その三十四階の観覧席はおろか、その上のコリント式のアーチのてっぺんまで鈴生《すずな》りになった観衆はおよそ一万七千人。七月の焼けつくような南仏の太陽の直射をものともせず、脂汗を流し、足踏み鳴らして開演今や遅しと控えたり。
 定刻となれば、砂場の穹門《アルク》から陽気な軍楽隊《ファンファル》を先に立て、しゅくしゅくと繰り出して来たのが、金糸銀糸で刺繍《ししゅう》した上衣に鍔広帽子《つばびろぼうし》をかぶった仕止師《マタドール》、続いて銛打師《バンデリエロ》、やせ馬にまたがった槍騎士《ピカドール》。二列に分れて会長《プレジダン》席の前に進み闘牛帽を手にして会長に挨拶する。たちまち桟敷《さじき》の
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