た。ニースからポッペ・マリオの一座がやって来た時のことでごわすが、『ヘロデ王と牛』というやつに出演いたしまして、ヘロデ王に叱《しか》られるとべそをかく、褒賞《ほうび》をもらうと押し戴く、ディヤナには色目を使うという工合で、天晴《あっぱ》れ一役をやってのけました。牛の皮をかぶった人間だってよもやあれまではやりこなしますまい。円戯場《アレエヌ》では向うところ敵なし。あいつの角にかかった馬は二百匹、闘牛師が三百人、牛が五百頭。……一|時《じ》は牛も闘牛師も種切れになるところでごわしたわい。最近は右の前足の付けねに腫物をでかして弱っとりますが、なんの、カルグの、アルルの、そこらの病み牛が束になって来たとて、びくともするものでごわせんわい。……いま、ここへ引き出しまするから、とっくりごらんなさるがようごわす」と、いって使童《ギャルソネ》を招いて、何か小声で囁《ささや》くと、やがて牧童が柵の木戸をあけて牛を一匹追い出して来た。
「さ、これが自慢のヘルキュレスでごわす」
 二人が振り返って見ると、赤煉瓦色の、まるで駱駝《らくだ》のような奇妙な瘤《こぶ》を背中にくっつけた跛《びっこ》の牛だから、タヌは驚いて、
「あら、でもヘルキュレスというのは、頭から尻尾まで真白な立派な牛だってことですが、……でもこの牛は赤いですわ」というと会長は丸い顔をつるりと撫で、
「なアに、こいつは今朝《けさ》から赤大根《ベットラヴ》の喰いづめで、それにそれ、赤葡萄酒《シャトオ・ヌウフ》の生《き》一本を二|升《ヒドン》ばかりやったのでこんなに赤くなったのでごわす」といった。
 五、犬にも徳育、豚にも愛嬌《あいきょう》、されば牛にはご修身。『闘牛学校』という看板のかかったアーチ形の入口についていた呼鈴《ベル》を押すと、出て来たのは、寸詰《すんづま》りのモオニングを着た五尺未満のチョビ髯の紳士はこちらが述べる用向きを途中から引ったくって、
「委細《いさい》承知。みなまで仰言《おっしゃ》るな。つまりですナ、この牛君……牛様に武芸万般を仕込んでぜひともヘルキュレスを闘技場《アレエヌ》の砂に埋葬しようという。……それならば秘策は万事|拙者《せっしゃ》の方寸にありますヨ。なるほど、こう申しては失礼ですが、お子供衆を拝見いたしますと、まだいささか柔弱の趣きですナ。しかしです、貸すに二週間の時日をもってせられるならばです、
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