というものです。もっとも私は大して虎を恐れているわけではありません。なにしろ、コルシカ島に虎がいたなんて話はまだ聞いたことがありませんからね。しかし、コルシカには虎より恐ろしいものがおります」
「と、申しますのは」
「コルシカの山地の人間です。非常に排他的でね。とりわけ、官吏やフィリッピン人……、まあ、そういったものをあまり好きじゃないらしいんですね。官吏や東洋人がコルシカの山地を旅行して、無事に帰ったというのはごくまれだという話です」
これを聞くよりその東洋人は、さっきの威勢もどこへやら目玉をすえて急に黙り込んでしまった。
二、極楽はコルシカにあり船に乗って行くべし。ははあ、そういうわけですか。賭球戯《ルウレット》というやつはいつになっても命とりですな。二十五万|法《フラン》勝って一度に二十五万法すっちまったら、誰れだってそんな気持になりますよ。……人里離れたところで生気を取りもどそうなんてのは、まず至極な思いつきですな。生半《なまなか》繁華なところにいるてえと、見るもの聞くもの癪《しゃく》の種、ってわけでね。つまらない了見を起こしかねませんからねえ。と、いっても北極探険なんてのも楽じゃない。アフリカ……あそこは日焼けがひどいね。じゃ、どうです。いっそコルシカへいらしちゃ。……手近で浮世離れしたなんてのはあそこ以外にはありませんな。春なんざすてきなもんですよ。そこらじゅう一面にベタベタと花が咲いてね、まるで理髪店《とこや》の壁紙のように派手なことになっちまうんです。そのなかでまた鶯《うぐいす》がのべつにピイチク・ピイチク鳴く。そうすると百舌《もず》だって引っ込んじゃいられない。負けずにピチョ・ピチョとやり返す、そのうちに月が出て引分け[#「引分け」に傍点]ってことになるんです。川には川でやたらに魚がいますね。その川ってのには、しょっちゅう温泉が流れ込むんで、魚はみないい加減にうだってぐったりしているんですよ。また山地へ行くと『|藪知らず《マッキオ》』ってのがある。棘《いばら》や木の枝が、こう、ご婦人の寝乱れ髪って工合に繁っていて、そのなかには鶫《つぐみ》もいれば虎もいる。そいつを藪《やぶ》のそとからぶっ放す……檻のなかの獣を撃つより楽なもんです。それから野山羊《のやぎ》、……こいつがまた変ったやつでしてね。毎朝自分の方からのこのこやって来ちゃ乳を置いて行くんで
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