ど》の中に姿を現わし来たる。折しもあれやバロン山で打ち出す三発の号砲は、午後二時より催される謝肉祭仮装大行進発程の合図。満堂の異形の群集は、明《あか》らひく曙《あけぼの》の光に追われし精霊《すだま》のごとく、騒然《どやどや》と先を争って、廻転扉の隙間からかき消すごとく姿は消えて跡白浪《あとしらなみ》。
二、踊り踊るならマッセナの広場で。一月上旬の顕出節《エピファニイ》から、五月下旬の基督昇天祭《アッサンシオン》まで、碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》一帯に連る名だたる遊覧地、――就中《とりわけて》、ニース市は約半歳の間、昼夜を分たぬ大遊楽、大饗宴の熱閙《ねっとう》と化するのが毎年の恒例。空には花火、地には大砲、日がな毎日どんどん・ぱちぱち。ヴェニス提灯、大炬《アーク》灯。疲れをしらぬ真鍮楽隊。キャフェの卓には三鞭酒の噴泉、旗亭の食料庫には鵞鳥と伊勢海老の大堤防。昼は百余の山車《だし》の行進、花合戦。夜はオペラの異装舞踏会《ヴェグリオーヌ》、市立遊楽会《カジノ・ミュニシバル》の仮装会《ルドウト》。それでも足らずにマッセナの大広場を公開して、踊ろうと跳ねようと勝手にまかす。ニース全市は湧き返るような大混雑、大盛況。有銭無銭の大群集は、それぞれ費用と場所をわきまえて、ただもう一|切《さい》夢中に法楽する。――虚空《こくう》に花降り音楽きこえ、霊香《れいきょう》四方《よも》薫《くん》ずる、これぞ現世極楽の一|大顕出《エピファニイ》。
さるにても同行タヌキ嬢の虐待酷使を受け、ついに心神耗弱したるコントラ・バスの研究生|狐《きつね》のコン吉氏は、その脳神経に栄養を与えるため、常春《とこはる》の碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》に向けて巴里《パリー》を出発したが、その途中において数々の不可解なる事件に遭遇。かてて加えて、芬蘭土《フィンランド》の大公爵と自称する、マルセイユ市の馬具商、当時、南海サン・マルセルの精神病院《メエゾン・ド・サンテ》在住のモンド氏なる人物に逅遇《かいぐう》。神秘的なる生活を余儀なくされ、涙ぐましき因縁《いんねん》により一時は中華民国人にまでなりあがり、はなはだ光栄ある日夜を送っていたが、幸いモンド氏も納まるところに納まり、このぶんではどうやら一命は取り止めた、と、ホッと一息。されば今度《このたび》この地において花馬車競技があるというにより、日本人と中華民国人の微妙なる差別を広く一般に示すはこの時なり。是が非でも一等賞を獲得し、かたがたもっていささか皇国《みくに》の光を異境に発揚せずんばあるべからず、とコン吉においてはタヌもろ共、ああでもない、こうでもない、「首」ひねったあげく、やがて妙趣天来。念を入れたうえにも念を入れ、手配り万般、ここに相整いまして、いまやその日を待つばかり。
三、白地に赤き日の丸の旗翻るニース海岸。合衆国河岸《ケエ・デゼ・ダシュニ》に沿って今日の花合戦のために仮設されたる※[#4分の1、1−9−19]|粁《キロ》三階の大桟敷《トリビュウヌ》。花馬車はすなわちこの桟敷《さじき》の前を軽歩して、桟敷の貴縉《きけん》紳士と花束の投げ合いをしようという仕組み。さるにても花馬車には、欧米に名だたる美形佳人が搭乗するのが古来の法式ゆえ、ふらんす・あるまん・あんぐれい、秀才・豚児の嫌いなく、この期《ご》に来たり合わしつる身の妙果。世界に著名《なだか》き美人のお手から、せめて腐れた菫《すみれ》の花束でも、一つ投げられて終生の護符《おまもり》にしよう、席料の三百|法《フラン》、五百法は嫌うところにあらず、と逆《のぼせ》あがってぞ控えたり。花束に未練はあっても出費《ついえ》を好まぬ温和なる人々は、アルベエル一世公園を貫く車道の両側にて、一脚五法の貸し椅子に納まり、そのうしろにして、爪立《つまだ》ちしてなお及ばざるは音楽堂の屋根、または棕櫚《しゅろ》の幹、噴水盤の頭蓋《あたま》などによじ登り、「花と美人の会合《ランデブ》」を、せめてその眼にて瞥見し、もっぱら後学の資《たし》にしようと、まだ明けやらぬ五時ごろからひしめき集う大衆無慮数万。碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》の人口をことごとくここに集めたかと思わるる盛況。
やがて定刻間近く檸檬《シトロン》と夾竹桃《ロオリエ・ロオズ》におおわれたるボロン山の堡塁《ほうるい》より、漆を塗ったるがごとき南方|藍《あい》の中空《なかぞら》めがけて、加農砲《キャノン》一発、轟然《どうん》とぶっ放せば、駿馬《しゅんめ》をつなぎたる花馬車、宝石にも紛《まご》う花自動車、アルプス猟騎兵第二十四連隊の軍楽隊《ファンファール》を先登に、しずしずと競技道路《スタアド》に乗り込み来る。まっ先に登場したのは、「|王室の象《エレファント・ロワイヤル》」と名づけし、ミラノの自動車王グラチアニ夫妻の花
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