ノ探険よりの帰途なる由
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 八、虎を指して猫と呼ぶおたんちんぱれおろがす。気息|掩々《えんえん》たる三着の水浴着《マイヨオ》が、オピタル・ド・ラ・ペエに運び込まれ、一様に39[#「39」は縦中横]度の一夜を明かしたその翌朝、一行は種々なる人士の光栄ある訪問を受けた。
 まず劈頭に出現したのは、大きな花束を持った「|小ニース人《プチ・ニソワ》」写真班であった、写真班の希望するところは「花束を持って笑った顔」の写真が一枚撮りたい、というのである。
 さればコン吉とタヌは、水浴着《マイヨオ》の胸に薔薇とミモザの花束をいだき、この世にある限りの「笑い顔」をして見せたが、写真班は、どれもこれも一向笑っているようには見えない、というのである。その後もいろいろと苦心経営したが、やがて、反対においおいと腹立たしくなって来たので、笑う方はやめにして普通の顔の前でマグネシュウムを焚いて勘弁してもらった。
 公爵の方は、これはしきりにおおげさな身振りをし、笑った顔、威張った顔、泣いた顔と、数種の撮影を強要したが、この方は、多分始めっから取り枠の中に乾板がなかったのであろう。、翌朝の新聞には、いずれの顔も掲載されていなかった。
 その次の訪問者は、
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ニース市謝肉祭企画委員[#「ニース市謝肉祭企画委員」は1段階大きな文字]
      弁護士 フオル・ボロン[#「弁護士 フオル・ボロン」は1段階大きな文字]
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 及び同夫人、同令嬢であった、フオル・ボロン氏は茴香酒《ペルノオ・フィス》の匂いのする赤鼻の肥大漢、同夫人は猫背の近視眼、しかしながら、同令嬢はさながら二月の水仙のごとき、純白の広東縮緬《カントン・クレエプ》の客間着に銀の帯を〆め憧憬《あこがれ》に満ちたあどけない眼を見開きながら、希望の条々につき、綿々とコン吉をかき口説くのであった。
 令嬢が希望する条項は、コン吉にとってははなはだ当惑千万、かたがた、多少ならず自尊心というものすら傷つけられる傾向があったので、コン吉にはコン吉の意見があるのである。がしかし菓子箱の蓋の三色版画の中にでもいるようなこの愛《め》ぐしき令嬢の願いを、当惑や自尊心だけで、拒絶していいものであろうか。いずれが是か、いずれが非か、これは、語るままに、令嬢に語らしめて、読者諸賢の判断を乞
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