。こんな辺鄙《へんぴ》なところで)
叢《くさむら》の中に靴を脱ぎすてると、キャラコさんは、かまわず内部へ入って行った。
これは、と驚くような、ひどい荒畳の上へ、薄っぺらな蒲団を敷いて、茜さんが寒々と寝ていた。煤だらけのむき出しの梁《はり》から、十|燭《しょく》ほどの薄暗い電灯が吊り下げられ、ぼんやりと部屋の中を照している。
茜さんの枕元には、瀬戸のはげた古洗面器や、薬瓶のようなものが、ごたごたと木盆の上に置かれてあった。
キャラコさんは、あまり思い掛けないことで、呆気にとられ、閾《しきい》際に立ちすくんでしまった。咄嗟《とっさ》に、何と声を掛けたらいいのか、わからなかった。
茜さんは、油|染《じ》んだ枕の上で、向うむきになったまま、
「お入りになったら、どうか、そこを閉めてちょうだい。……風が入って来ますから。こうしていても、足から凍えて来るようなの。なんて、寒いんでしょう」
キャラコさんは、胸を衝《つ》かれるような思いで、そのほうへつき進んで、畳に膝をつけ、
「茜さん、あたしよ。……剛子《つよこ》よ」
枕の上で、ぐるりと茜さんの頭が廻った。茜さんの顔に、サッと血の色が差し、すぐまた真っ蒼になった。幻影《まぼろし》でも見ているひとのような自信のない眼付きで、穴のあかんばかりにキャラコさんの顔をみつめていたが、とつぜん、ほとばしるような声で、
「キャラコさん!……あなた、どうしてこんなところへ!」
キャラコさんは、半ば夢中で、膝で茜さんの蒲団のうえへ乗りあがって行った。
「茜さん、あなた、たいへんだったのね。どうしてあたしに教えてくれなかったの。それは、ひどくてよ」
茜さんは、キャラコさんの声がまるっきり、耳に届かなかったように、
「キャラコさん、あなたどうして、こんなところへいらしたの。今晩、会がおありなんでしょう」
「いま、盛んにやっていますわ。あたし、よくお断わりをいって、途中から脱けて来ましたの」
「キャラコさん……」
茜さんの視線が、キャラコさんの顔のうえから動かなくなったと思うと、間もなく、大きな眼の中から押し出すように涙があふれ出て来て眥《めじり》から顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のほうへゆっくりと下ってゆく。茜さんの咽喉の奥から、ああ、という嗚咽の声がもれ、両手で顔をおおうと、劇しくすすり泣きをはじめた。
「キャラコさん、……あたし……たったひとりだったの……」
キャラコさんは、泣いてはいけないと思って我慢に我慢を重ねたが、こんなひどい荒屋の中で、茜さんがたったひとりで、淋しさや苦しさと戦っていたそのつらさはどんなだったと思うと、やるせなくなって、とうとうシクシクと泣き出してしまった。
とつぜん、濡れた手がはいよって来て、しっかりとキャラコさんの手頸《てくび》をつかんだ。
「あたし、嬉しくて、気が狂いそうだわ」
キャラコさんが、その手をにぎり返して、
「茜さん、あなた、淋しかったでしょうね。よく我慢なすったわね。ほんとうに、えらいわ。こんなところで、たったひとりで」
茜さんは、キャラコさんのいうことなどは、まるで聞いていない。じぶんのいうことだけ早くいってしまおうというように、
「ええ、ええ。どんなに淋しかったか知れないわ。……でも、もう大丈夫。あなたが来て下さったから。なんて、嬉しいんだろう。……なんて、安心なこと。……まるで、夢のようね。あなたがいらして下さるなんて、思ってもいませんでしたわ」
「あなたは、ほんとうにひどいのよ。どうしてあたしに、知らせてくれなかったの。どんなことだってできたのに」
「でも、とても、そんな勇気がありませんでしたの」
そういって、とつぜん、眼を輝かして、
「キャラコさん、あたし、赤ちゃんを生むのよ。……これからはどんなに生き甲斐があるか知れませんわ。……赤ちゃ[#「赤ちゃ」はママ]を生むって、どんな頼母《たのも》しい気持がするものか、あなたにはおわかりにならないでしょうね」
「ほんとうに、お目出たいわ。元気を出して、立派な赤ちゃん、生んでちょうだい」
透きとおるように蒼白くなった茜さんの頬が、昂奮のいろで淡赤《うすあか》く染まる。そこに赤い二つの薔薇が咲き出したようにも見えるのだった。あまりよく栄養もとれなかったと見えて、面《おも》差しはたいへんやつれていたけれど、そのかわり、眼の中には、堅忍とでもいったような、ゆるぎのない光がやどっていた。『母』の、あの面差しだった。
「あたし、ついこのごろまで、あのひとをどんなに恨んでたか知れませんの。でも、そんなことは、どうでもよくなった。いま、あたしは、気が狂いそうになるくらい、嬉しいの」
この五月に逢った時の、それとない茜さんの話では、茜さんの愛人の若い課長は、年齢の割りに少しば
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