キャラコさん、……あたし……たったひとりだったの……」
キャラコさんは、泣いてはいけないと思って我慢に我慢を重ねたが、こんなひどい荒屋の中で、茜さんがたったひとりで、淋しさや苦しさと戦っていたそのつらさはどんなだったと思うと、やるせなくなって、とうとうシクシクと泣き出してしまった。
とつぜん、濡れた手がはいよって来て、しっかりとキャラコさんの手頸《てくび》をつかんだ。
「あたし、嬉しくて、気が狂いそうだわ」
キャラコさんが、その手をにぎり返して、
「茜さん、あなた、淋しかったでしょうね。よく我慢なすったわね。ほんとうに、えらいわ。こんなところで、たったひとりで」
茜さんは、キャラコさんのいうことなどは、まるで聞いていない。じぶんのいうことだけ早くいってしまおうというように、
「ええ、ええ。どんなに淋しかったか知れないわ。……でも、もう大丈夫。あなたが来て下さったから。なんて、嬉しいんだろう。……なんて、安心なこと。……まるで、夢のようね。あなたがいらして下さるなんて、思ってもいませんでしたわ」
「あなたは、ほんとうにひどいのよ。どうしてあたしに、知らせてくれなかったの。どんなことだってできたのに」
「でも、とても、そんな勇気がありませんでしたの」
そういって、とつぜん、眼を輝かして、
「キャラコさん、あたし、赤ちゃんを生むのよ。……これからはどんなに生き甲斐があるか知れませんわ。……赤ちゃ[#「赤ちゃ」はママ]を生むって、どんな頼母《たのも》しい気持がするものか、あなたにはおわかりにならないでしょうね」
「ほんとうに、お目出たいわ。元気を出して、立派な赤ちゃん、生んでちょうだい」
透きとおるように蒼白くなった茜さんの頬が、昂奮のいろで淡赤《うすあか》く染まる。そこに赤い二つの薔薇が咲き出したようにも見えるのだった。あまりよく栄養もとれなかったと見えて、面《おも》差しはたいへんやつれていたけれど、そのかわり、眼の中には、堅忍とでもいったような、ゆるぎのない光がやどっていた。『母』の、あの面差しだった。
「あたし、ついこのごろまで、あのひとをどんなに恨んでたか知れませんの。でも、そんなことは、どうでもよくなった。いま、あたしは、気が狂いそうになるくらい、嬉しいの」
この五月に逢った時の、それとない茜さんの話では、茜さんの愛人の若い課長は、年齢の割りに少しば
前へ
次へ
全16ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング