すやら、蕪《かぶ》大根《だいこん》を噛んで吐き出すやら、なかんずく、人参と来ましたら、一倍と好みがやかましく、ありふれた長人参では啣えてみようともいたしませぬ。ベルギーという白っこい温室できのやつでなければ、お気に召さんのでありまする。……華族さまのお馬といえども、こんな贅沢はいたしますまい。どうにもはや、手のかかるやつなのでござりまする」
 そういって、うれしさのあまり、感きわまったように身ぶるいをした。
 ああ、この老人は嘘をいっている!
 ようやく飼料桶《かいばおけ》の底が隠れるくらいの乾草に、ひと握りのほどの糠《ぬか》をまぜ、最後のひとつまみまでを指で集めて喰べさせているのを、キャラコさんは、これでもう、十日もまいにち見ているのだ。情けなそうに首をふりながら、この苗木が売れたら、人参を三銭も買ってやるから、ひもじくとももうしばらく我慢をしろ、と判でおしたように同じ言葉でなぐさめることも!
 しかし、これを嘘といってはいけないのであろう。老人は夢を語っているのだ。貧窮のなかで、この夢想だけが老人の慰めなのであった。
 もし、誰れかが、
(おじいさん、あなたは、たいへんな嘘つきだ。あなたは、この馬に、すこしばかりの乾草と、ひと握りの糠しか食べさせていないじゃないか)
 と、いったら、この老人は、絶望のあまり泣きだしてしまうにちがいない。
 キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。喉の奥のところに、固いものが突っかけてきて、すんでのことに、涙を見せるとこだった。
 老人は、酔ったようになって、いかにも誇らしそうに両手を擦《こす》り合わせながら、
「……いま申しましたように、たとえようのない我ままなやつではありまするが、そうならばそうで、いっそうに愛らしく、はや、どうにもならぬ始末なのでござります。……まったく、こんなしあわせなやつは、この世にまたとあろうとも思われませぬ。……あの顔をば見てやってくださりませ。……なんという小癪《こしゃく》らしい、可愛げな顔ばしているのでありましょう」
 たしかに、こういう見方もあるのに相違ない。
 頭の禿げた、悲しげな顔をした馬は、いかにもひだるそうに、力なく横腹に波うたせながら、首を垂れ、うっそりと眼をとじている。しかし、仮に、老人の意見を認めるとすれば、飽食《ほうしょく》の、満ち足りた幸福の絶頂で、うつらうつらしているのだと、考えて考えられぬこともない。
 キャラコさんが、感動の極といったような声を、だす。
「そうだとすれば、なんという贅沢な馬さんなんでしょう! そんなしあわせな馬さんなんて、あとにもさきにも聞いたことがありませんわ」
「じつに、はやもう!」
「あたし、この馬さんを見たとき、なんというおっとりとしたようすをしているんだろうと、思いましたの。まったく、理由のないことじゃありませんでしたわ。そんなにだいじにされて、したいようにしているのだから、それで、こんな上品な顔つきになるのですね」
 キャラコさんは、嘘をついたのではない。ほんの、ちょっとばかり、誇張したのに過ぎない。老人の夢に賛成することが、老人を慰めるいちばんいい方法だと思ったから。……そして、ひょっとして、こんなふうにでもいったら、見向きもしないというこの長人参を、気位《きぐらい》の高いこの馬さんに食べていただけるようなことになるかも知れないと思って。
 背中に隠している長人参の葉が、キャラコさんの手のなかで火のように燃える。なんとかして、この施物《せぶつ》を受けとらせるうまい口実を探し出そうと思って、キャラコさんは、夢中になってあれこれとかんがえはじめる。
 ともかく、老人は、すこしばかりいいすぎたようだ。今となっては、どうしたってこの長人参を受けとるわけにはゆくまい。
(長人参などときたら、くわえても見ようとしないのでござります)
 そのひとことが、たいへんな重石《おもし》になってしまった。老人は、自分の夢を語るのに一生懸命で、キャラコさんの腰骨《こしぼね》のあたりからソッとのぞきだしている、目のつんだきれいな人参の葉っぱに気がつかなかった。それにさえ気がついていたら、こうまでひどく人参を軽蔑するようなことはしなかったであろう。
 ああ、じっさい! キャラコさんのほうにしたってそうだ。こういう経過のあとで、この人参を受けとらせようとするのは、なかなかなまやさしいことではないのである。
 水気の多い、見るさえ美味《うま》そうな、このひと束の人参!
 歯のあいだで噛みしめたら、口のなかが清々しい匂いでいっぱいになってしまうにちがいない。シャリシャリいう、なんともいえない歯あたりと、どこか、すこしばかりピリッとした甘い漿液《しる》!
 四半桶の秣《まぐさ》と、ひと握りの糠《ぬか》しか食べていない、この餓
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