。要するに、あたしの想像でしかないのですから、それには、なにかたしかな証拠でもあるのかと、ききかえされたら、あたしは、ぐっとつまって、黙ってしまうよりほかはないのです。
でも、たとえ、あたしが、どんな滑稽《こっけい》な羽目に落ち込んで、赤面しながら引き退ってくるとしても、あたしが、そんな感情をひき起こされた以上、どうしてもそのままにして置くわけにはゆきません。それからまた三時ごろまで、ひとりでもだもだしていましたが、とうとう決心して、やって来たのです。
十分ほどののち、部屋つづきの扉《ドア》から、四十五六の、軍人のような立派な体格の紳士がはいって来ました。
色が浅黒くて顎《あご》が強く両方に張り出し、内に隠した感情を決して外へ表わすまいとするような意力的な顔でした。
久世氏は、あたしのような若い娘の訪問客を、ちょっと驚いたような顔で眺めていましたが、椅子に掛けると、社交的な、その実、たいへん事務的な口調で、
「今日《こんにち》は、どういう御用事でしたか。……なにか、長六閣下のおことづけでも?」
と、たずねました。つまらない話なら、簡単に切り上げたいものだ、というようなようすがアリアリと見えすいていました。
あたしは、胸を張って、しっかりした声でやりだしました。
「いいえ、真澄《ますみ》さんのことでおうかがいしたのです」
久世氏は、ちょっと顔をひきしめましたが、あたしはそんなことには頓着なく、ボクさんと始めて逢った時のことからくわしく話はじめました。
こんな多忙な事務家にたいして、あたしの話し方はすこし悠長《ゆうちょう》すぎたかも知れません。あたしが、まだ半分も話さぬうちに、さっきこの窓にさしかけていた夕陽が、向う側の建物に移っていました。
あたしは、閉口して、こんなふうにいいわけをしました。
「こんなことを申しあげるためにおうかがいしたのではありませんけれど、順序よくお話をしなければお判りにならないだろうと思って、それで……。申しあげなければならないのは、これからあとのほうなのです」
久世氏は、無感動ともいえるような冷静な面持ちで、
「いや、そのつづきをうかがってもしようがありますまい。……大凡《おおよそ》のことはご存知のようですが、あたしの結婚はたしかに失敗でした。……要するに、膚が合わなかったのですな。……しかし、こんなことはざらにあることで、とり立てて申しあげるほどのことでもない。……ただ、子供だけは、ああいう放縦な日常の中へ放って置くわけにはゆかないから、とりかえしたいと思って、さまざまにやって見たのですが、次々に隠し場所を変えるので、どうにも手がつけられないのです。……この間、ようやく東京にいることを突きとめて、ひとをやったのですが、どうしても出してくれない。……あれは、真澄を愛しているわけでなく、わたしに復讐するつもりで、ヤケになってやっているのですから、理窟でも法律でもおさえつけるわけにはゆかない。……わたしのほうも、そんな愚劣な感情に屈服する気はないのだから、いっそう話がむずかしくなってしまうのです。……人づてに聞いたところでは、真澄はわたしを軽蔑し、わたしにひどく反感を持っているらしい。わたしの、ちょっとした愚行を、利江が長い間かかって誇張《こちょう》して吹き込んだと見えて今まではわたしを憎んでさえいるそうです。……そうまでになった子供を、わたしの生活の中へ連れ込んで見たところで、果して、うまくゆくかどうかそれも疑問だと思うものですから、この間の交渉を最後にして、真澄を取り戻すことは断念しようと決心したのでした」
久世氏のいい廻しは、たいへんに上手でしたが、やはり、よけいなことをいいに来たもんだという、苦々《にがにが》しい調子が含まれていました。
あたしは、すこし赧《あか》くなって、
「さっきも、申し上げましたが、あたくしは、そんなむずかしいことでおうかがいしたのではありませんでしたの。ただ、これをお届けしたいと思って……。ボクさんも、たぶん、そうありたいとねがっているのだと思いましたから」
そういいながら、ボクさんが詩を書きつけた紙片《かみきれ》を、久世氏のほうへ押してやりました。
久世氏は、それを取りあげて、だまって読んでいましたが、間もなく投げ出すようにそれを卓《テーブル》の上に置くと、厳《いか》めしい咳払いをしながら、
「ちょっと、失礼します」
と、いいました。
立ってゆくのかと見ていると、そうではなく、ゆっくりと眼鏡をはずして、両手を顔にあてたと思うと、調子はずれな大きな声ではげしく号泣《ごうきゅう》しはじめました。
ちょうど海綿でも絞ったように、涙が両手の指の股からあふれ出し、筋をひいてカフスの中へ流れ込みます。まるで、含嗽《うがい》でもするような音をたてながら、
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