とも知りませんでしたよ。では、ずいぶん、困ったでしょうね、ボクさん」
「ボク、いろんなことをして見たの。でも、どうしても出られませんでしたの」
「その間、ひとりでなにをして遊んでいた?」
「ボク、することないから詩をつくって遊んでいたの」
「そう、どんな詩?」
「なんでもない詩。……ここにひとつ持っています」
月の光で読んで見ました。
[#ここから3字下げ]
ところで、ボクは、しゃがみます、
ピチピチしてる川のそば。
ボクは、ながす
ちょうちょうのような笹舟。
なみよ、ゆすってゆけ
パパのところまで。
[#ここで字下げ終わり]
この詩情の中に、なんというあわれなねがいがしみ透っていることでしょう。あたしは、胸がいっぱいになって、どうしていいかわからなくなってしまいました。
せめて、こうとでもいうほかは。
「あなた、パパが好きなのね、ボクさん」
「ええ。……でも、パパは、ボクが嫌いなの。ボクを見たくないんだって、ママがそういいました」
「おかしいわね。じゃ、なぜ、パパのお使いがボクさんを連れにくるのかしら」
「それはね、ボクを連れて行って、もっと苛《いじ》めるためなんですって……」
(なんという、ひどい嘘をつくのだろう!)
あたしは、呆気《あっけ》にとられて、なんともいえなくなってしまいました。
ボクさん、あわれなようすで、しょんぼりと両膝を抱きながら、
「そんな話、よしましょう。……ボク、もう、ひとりでいることは平気です。ボク、淋しくなると、星の世界へ遊びにゆきますからなんでもないの」
「星の世界へ……」
なんのことだかわからないので、あたしが、たずねかえしました。
「星の世界、って、なんのこと?」
すると、ボクさんは、あたしの手をとって、眼をつぶりながら、
「……ほら、こんなふうに、ギュッと眼をつぶって、息をいっぱいに吸い込むの。……そして、ボクの身体が、空気より軽くなったんだと思うの。……すると、ボクの身体がフワリと窓からぬけ出して、ズンズン空へあがってゆくの。……ボクのすぐそばで、風が冷たくなったり、星がランプのように大きくなったりするから、ボクがいま空へのぼっているんだということがよくわかるの。……やって見ましょうか。……キャラコさん、眼をつぶっててください」
「こうするのね」
「息をいっぱい吸ってちょうだい」
「吸いました」
「二人は空気より軽くなったんだとかんがえてください」
「かんがえました」
「ほら、ズンズンあがってゆくでしょう。……ズンズン、ね」
「ほんとね」
「……そろそろ、風が冷たくなりましたね」
「いい気持よ」
「ここは、大熊星《だいゆうせい》のそばです。……耳んところで、風がヒュウヒュウいうでしょう」
「ええ、……ヒュウヒュウいうわ」
「もっと上へゆきましょうね。……もっと高く……もっと高く……」
「……もっと高く、……もっと高く……」
ボクさんの声が、だんだんおぼろ気《げ》になります、ほの暗い庭の隅で。
間もなく、寝息がきこえてきました。ボクさんが星の世界から帰ってきたのは、それから一時間ほど経ったのちのことでした。
五
あたしは、次の日の午後、久世氏の事務所の応接間の、大きな皮張りの椅子にキチンと掛けていました。
なんともいえぬ奇妙な感情が、昨夜《ゆうべ》からあたしを悩ましているのです。予覚といったようなごく漠然としたものなのですが、それを久世氏に聞いてもらいたいと思って、それでやって来たのです。
ひと口にいいますと、ボクさんの星の世界への憧憬《あこがれ》は、かんたんに敏感のせいだと形付《かたちづ》けてしまえないようなところがあるように思われ出してきたのです。稚《おさな》い詩心《リリスム》のほかに、なにかもっと別な意味があるのではないだろうか、って……。
ボクさんが、星の世界へゆくというのは、想像の中の遊戯でなしに、なにかの比喩なのではないのかしら。……ボクさんが憧憬《あこが》れているのは、実は、ほんとうの『星の世界』のことなのかも知れない。
こんなふうにかんがえて来ますと、あたしは不安になって、その晩は、とうとうマンジリともしないで明かしてしまいました。
あたしは、午前中、じぶんの部屋の椅子に坐って、どうしたらこの手に負えない奇妙な不安から逃れることができるかと、いろいろにかんがえていましたが、結局、あたしの力ではどうすることもできないことに気がつきました。最初は利江子夫人にこの不安を打ち明けようかと思いましたが、なにしろあんなヒステリックなかたですから、そのために、ボクさんに、どんなひどいことをするかわかったものではありません。そうすると、これをうちあけるひとは久世氏よりほかはないのです。
一方からいうと、これはたしかに突飛《とっぴ》なはなしです
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