フ優しいひとまでが! ……悲しいわ。……死んだほうがましだ。……もう、生きてなんかいたくない。あまり、辛すぎますもの……」
レエヌさんの眼からあふれ出した涙が、枕の上へ滴《したた》り落ちて、ゆっくりと汚点《しみ》をひろげて行く。キャラコさんは、鎧扉へ額を押しつけて、泣くまいといっしんに我慢していたが、涙が勝手に流れ出して、いつの間にか頬をぬらしていた。
レエヌさんは、夢の中のひとのような響きのない声で、
「……お兄さん、あたしたちは、いったいどうなるのでしょうね。こんなに辛くとも、まだ生きていなければならないのかしら。……日本人でもなければ、フランス人でもない。あわれな黄白混血児《ユウラジアン》。……お兄さん、あたしね、ヴァンクウヴァにいるとき、夕方になると、いつも、スタンリーの波止場へ出かけ行って、岩壁に腰をかけて鴎《かもめ》をながめていましたの。……渚に引き上げられた破船の船尾《とも》や潮で錆びた赤い浮標《ブイ》の上を、たくさんの鴎が淋しそうに飛び廻っています。……鴎にも故郷がない。……海も故郷ではない、陸《おか》も故郷ではない。……空の下をあてもなく飛び廻っているばかり……。あたしたちも、この鴎と同じようなものだと思って、なつかしくてたまらなかったの。……この鴎たちも、せつない郷愁《ノスタルジア》を運んで行くところがないのだと思って、ながめているうちに悲しくなって、いつも、泣き出してしまうの……」
これが、レエヌさんのこころの秘密だった。自棄も、反抗も、無信仰も、みな、このやるせない絶望の中で熟成した不幸な気質なのだった。レエヌさんの意地悪も、強がりも、孤立も、奇矯《エクサントリック》なさまざまな振舞いも、今こそ、そのいちいちの意味がはっきりとわかるのである。
キャラコさんの、心はしみじみとうなだれる。この気の毒なレエヌさんをにらみつけて、立ちはだかっていた、自分のすさまじいようすを恥辱《はじ》と慙愧《ざんき》の感情で思いかえす。
キャラコさんは、手も足も出ないような心の無力を感じながら、低く、つぶやいた。
「……あやまらなければならないのは、あたしのほうよ、レエヌさん……」
底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
1939(昭和14)年5月号
※初出時の副題は、「赤い孔雀」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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