しても信じられないのです。どうぞ、あわれだと思って、ちょうだい。
 あたくしの枕元に坐って、それがほんとうにあったことだとあたくしに、しっかりといってきかせてください。あたくしは、追憶の清冽な水でこころを洗い、いつも、そうありたいと望んでいたように、しあわせな娘のように、死んで行きたいのです。……
[#ここで字下げ終わり]

     七
 ちょうど、生麦《なまむぎ》を通るころ、沛然《はいぜん》と豪雨が降り出した。
 水しぶきが自動車のまわりを白く立ちこめる。暗澹《あんたん》とした夜の国道の上で気がちがったように雨と風が荒れ狂っていた。
 保羅《ぽうる》はクッションにぐったりと背をもたせかけたままひとことも口をきかない。自分だけの物思いに深く沈潜しているようだった。
 キャラコさんは、レエヌさんの手紙を膝のうえにひろげ、薄暗いドーム・ランプの光でいくどもいくども読みかえす。
「悲しいわ」
 じぶんの楽しかった時代を信じることができないという悲しさは、いったい、どんなだろうとつくづくに思いやる。それは、いま死にかけている、不幸だったひとだけが感じうる、やるせない懐疑なのであろう。
 キャ
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