ラコさんは、それをそっくり理解することはできないが、悲しみの深さだけはわかるような気がする。こまごまと思いやるよりも、あわれさのほうが先に立って、つい、ほろりとしてしまうのだった。
 卅分ほどののち、自動車は競馬場の柵のそばでとまった。夏草ばかり繁ったさびしいところで、右手の闇の中に、ポツリとひとつだけ灯《あかり》が見える。
 保羅は、キャラコさんのほうを向くと、ブッキラ棒な調子で、
「あれです」
 と、顎でそのほうを指した。
 斜面についた細い坂道をのぼってゆくと、行きとまりの小さな雑木林の中にその建物が建っていた。闇の空で、屋根の風見《かざみ》がカラカラと気ぜわしく鳴っていた。
 保羅が、門の前で大きな声で叫ぶと、すこし離れた別棟の小屋の戸があいて、提灯《ちょうちん》をさげた、六十ばかりの老爺《としより》がびっこをひきながら出て来て、ひどく大儀そうに門をあけた。漆にでもかぶれたらしく、顔いちめんを豆つぶのような腫物がおおっていた。
 玄関へ入ると広い内椽《ベランダ》で、そこからすぐ二階へあがれるようになっている。半開きになった右手は客間《サロン》らしく、扉《ドア》の隙間からそれらしい調度が見えていた。
 仏蘭西《フランス》瓦を置いた、木造のがっしりした建物だが、建ってからもう廿年以上にもなると見えて壁はところどころはげ落ち、どこもかしこも傷《いた》み、ひどいほこりだった。
 保羅は、濡れた雨外套を着たままズンズン二階のほうへあがってゆく。キャラコさんは、濡れた靴を気にしながら、そのあとをついて行った。
 保羅は、三つあるいちばん奥まった部屋の扉《ドア》をそっとあけて、その内部《なか》へキャラコさんを押しいれた。
 雨の汚点《しみ》が、壁に異様な模様を描《か》いている。化粧台の鏡には大きな亀裂《ひび》がはいり、縁の欠けた白い陶器の洗面器の中に、死んだ蠅が一匹ころがっていた。
 窓ガラスの上を、ひどい勢いで雨が流れおちる。とどろくような嵐の音。寝台の枕元の置電灯《スタンド》が、嵐がつのるたびに、あぶなっかしくスウッと暗くなる。
 レエヌさんは、こんなわびしい風景の中で、一種孤独のようすで眼をつぶっていた。
 片側からくるスタンドの光で、高い鼻のかげで頬のうえに奇妙な翳《かげ》をつくり、顔はびっくりするほど小さくなって、透きとおるような蒼白い手が、にぎる力もないように、ぐったりと側《わき》に垂れさがっていた。それでも、むかし、睡蓮《すいれん》の花のようだとよく思い思いした美しい俤《おもかげ》は、どこかにぼんやり残っていて、それだけに、いっそう、あわれ深かった。
 傲慢《ごうまん》で、矜持《ほこり》の高い、レエヌさんの、このやつれ切ったようすを見ると、キャラコさんは、すこしばかり心の底に残っていた怒りや軽蔑の感情をすっかり忘れてしまった。胸がいっぱいになって、走るようにそのそばによると、鼻がつまったような声で、
「礼奴《れいぬ》さん」
 と、ひくく呼んで見た。
 レエヌさんは、ゆっくりと眼をひらくと、子供のように顔じゅう眼ばかりにしてまじまじとキャラコさんの顔をながめていたが、なんともいえぬ奇妙な微笑をうかべると、
「ああ、とうとう、いらしたのね」
 と、つぶやくようにいった。
 キャラコさんは、心からの和解の手を差しのべながら、
「ええ、あたしよ。……でも、思ったよりお元気そうで、うれしいわ」
 レエヌさんは、
「ええ、どうも、ありがとう」
 うわの空でいって、嘲笑するような口調で、
「ねえ、キャラコさん、あんた、とうとうやって来たわね」
 と、もう一度くりかえした。
 キャラコさんは、掌《てのひら》の中でレエヌの小さい手をしっかりとはさみとりながら、
「お手紙を見るとすぐに飛んで来たの……。ほんとに、飛ぶようにしてやって来たのよ、レエヌさん」
 レエヌは、キャラコさんの手を払いのけると、瘠せた指で寝台の端をギュッと掴んで、けたたましい声で笑い出した。
「やあい、とうとう、ひっかかりやがった!」
(気がちがいかけているのかも知れない)
 キャラコさんは、反射的に扉《ドア》のほうへふりかえったが、つい今まで立っていた保羅の姿はそこにはなかった。
 いまにも吹き倒されるかと思うばかりに、ミリミリと家じゅうがきしみわたる。どこかで、風に煽られる鎧扉《よろいど》がバタンバタンと鳴りつづけ、それにまじって、階下《した》の扉口のほうで釘を打つような鋭い音がひびいてくる。
 レエヌは、瘧《おこり》でも落ちたように、とつぜん笑いをやめ、眼を輝かしながらその音にききいっていたが、ゆっくりと枕の上で顔をまわして、キャラコさんのほうへ向きなおると、
「あなた、あの音、なんだか知っている? ……あれはね、保羅が、家じゅうの扉《ドア》や窓を釘づけにしてい
前へ 次へ
全19ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング