わえたまま、入口の扉《ドア》にもたれて立っていた。
すこし大きすぎる服を無頓着に着、踏みつぶしたような鼠色のソフトを阿弥陀《あみだ》にかぶって、右手に碧《あお》い石のはいった大きな指輪をはめている。なにかゾッとするような野卑なところがあった。ぷんと酒臭い匂いがした。
「あたしに、なにか御用でしたの」
「そうです」
唇も動かさずに、ぶっきら棒にいうと、帽子へちょっと手をやって無造作な挨拶をして、
「僕ア、礼奴《れえぬ》の兄の保羅《ぽうる》ってもんです。……じつア、ちょっとお願いしたいことがあって……」
レエヌさんの兄さんの保羅……。そういえば、眼差しや眉のあたりが、美しいレエヌさんによく似ている。
(それにしても、あたしに用って、いったい、どんな事かしら……)
キャラコさんは、愛想のいい調子で、たずねた。
「……それで、あたしに、どんな御用?」
青年は、扉《ドア》に背をもたせたまま、
「レエヌが、死にかけて、あなたに、逢いたがっているんです」
だいぶ酔っている。舌がもつれて、言葉のはしはしがよくききとれなかった。
「……ピエールと喧嘩をして快遊船《ヨット》を降りてから、身体を悪くして、横浜の根岸の家で、もう半月もずっと寝たきりになっているんですが、どうしたのか、この四五日前からしきりにあなたに逢いたがる。迎いに行って、ぜひいちど来てもらってくれと頼むんですが、知らないならいざ知らず、私もレエヌからきいてよく知っているのですから、あんなことのあったあとで、こんなお願いに出るのも、あまり虫がいいようで、てれくさくてしようがないから、今日も逢えなかった、今日も逢えなかったで、ごまかしていたんです。……ところが……」
急に暗い眼つきをして、窓のほうへぼんやりと視線を漂わせていたが、右手の人差し指を曲げて顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にあてがうと、沈み切った声で、
「……じつは、ゆうべ、とうとうやったんです。……まずいことには、これが失敗《しくじ》っちゃって……。そんなわけだから、もう嘘はいえない。今日こそは、どんなことがあっても、お目にかかって、お願いして見ようと思って」
と、いいながら、ポケットから封筒にはいった手紙を取り出して、
「ここに、あいつの手紙を持っていますから読んでみてください。……僕なんかが、ぐずぐずいうよりもそのほうが、手っとり早い」
キャラコさんは、手紙を受け取るとぐっと、息をつめながら封を切った。一字一字を、どんなに骨折って書いたのだろう。ペンの先が、ところどころ、紙の裏まで突きぬけていた。
[#ここから3字下げ]
あたくしは、たぶん、不器用にやったのです。引き金のひきかたが下手だったので、弾丸《たま》は頭のうしろのほうへ喰い込んでしまいました。しかし、弾丸を抜き出すことはできませんし、心臓にもそろそろ異常が始まっています。もう、どうせ、そんなに長いことはないのでしょう。
あたくしが弱っていなかったら、あなたのところへ飛んで行きたい。別れたピエールのことやあたしの辛かった時期のことでなく、あたしの短い生涯のうちで、いちばんはっきりした、誰も奪うことのできない、それこそ、ただひとつの実在だったあの楽しい女学生時代のお話をするために……。
あたくしは、あふれるばかりの甘さとやさしさの夢に満ちていたあの時代のことを、まいにち、無垢な感動をもって思いかえしています。
けれど、あの後のあたくしの生活はあまりにみじめで、そして、辛すぎたので、自分自身が、そんな楽しい時代を経たことがあったとはどうしても信じられないのです。どうぞ、あわれだと思って、ちょうだい。
あたくしの枕元に坐って、それがほんとうにあったことだとあたくしに、しっかりといってきかせてください。あたくしは、追憶の清冽な水でこころを洗い、いつも、そうありたいと望んでいたように、しあわせな娘のように、死んで行きたいのです。……
[#ここで字下げ終わり]
七
ちょうど、生麦《なまむぎ》を通るころ、沛然《はいぜん》と豪雨が降り出した。
水しぶきが自動車のまわりを白く立ちこめる。暗澹《あんたん》とした夜の国道の上で気がちがったように雨と風が荒れ狂っていた。
保羅《ぽうる》はクッションにぐったりと背をもたせかけたままひとことも口をきかない。自分だけの物思いに深く沈潜しているようだった。
キャラコさんは、レエヌさんの手紙を膝のうえにひろげ、薄暗いドーム・ランプの光でいくどもいくども読みかえす。
「悲しいわ」
じぶんの楽しかった時代を信じることができないという悲しさは、いったい、どんなだろうとつくづくに思いやる。それは、いま死にかけている、不幸だったひとだけが感じうる、やるせない懐疑なのであろう。
キャ
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