(ピエールさんの独断《ドグマ》には、なかにすこし喰いちがいがある)
しかし、そうはいわなかった。
「そうかも知れませんね」
ピエールさんは、むかしのことを思いかえすような深い眼つきをしながら、
「レエヌが日本からやって来て、とつぜん、われわれの前へ現われたときは、ほんとうに、美しかった。まるで、生きた日本人形のようでしたよ。……長い袖《そで》のあるキモノを着ましてね、髪に桜の花の簪《かんざし》をさして、いつも眼を伏せて微笑ばかりしていました。……レエヌは、私ども一家の、すこし調子をはずした日本趣味《ジャパニスム》を知っていて、そんな媚態《コケットリイ》をやって見せたのにちがいありません。……あのころのレエヌは、たしかにわれわれに気にいられたいという素直な気持があったのです。……父は、あんなふうなんですから、有頂天になって喜びましたが、エステル叔母や頑固な親戚たちは、こいつに大反対なんです。死んだ父の子供ならフランス人であるべきだというんです。……しかし、これは、レエヌにとっては、たいした問題じゃなかった。もともと黄白混血児《ユウラジアン》ですし、あの通りの気紛屋《キャプリシウズ》だから、今日は日本人、あすは仏蘭西《フランス》人というぐあいに、どちらの側にも都合がいいようにうまくやってのけました。おもしろがっているようにすら見えたくらいです。……とにかくどういう意味でも、われわれの家庭の中に、レエヌをいら立たせたり、自棄《やけ》にさせたりするような原因はなかったと思います。……ところで、レエヌが、おだやかにしていたのは、カナダへ着いた当座の、ほんの一月ぐらいだったでしょう。それが過ぎると、剛情で、野卑で、ひねくれて、陰険で、手に負えないようになってしまいました。むやみに金を費《つか》ったり、人に喰ってかかったり、下等なことをわめきちらしたり、……何の理由もなしに自殺しかかったことさえあるんです。むかし、酒場《バア》をやっていたころ、どんなくらしをしていたのか知りませんが、たしかに、そのころのひどい生活がレエヌの性格の中へ深く染み込んでいるのにちがいないのです」
何ともつかぬ切実な感情が、キャラコさんの心をしめつけた。
「もし、そうだとすると、それは、レエヌさんの罪ではありませんわ」
ピエールさんは、当惑したような眼つきでキャラコさんの眼を見かえしながら、
「すると、いったい、だれの罪なんです。少なくとも、われわれは、どんな小さなことでも、レエヌの幸福ばかりを考えてやってきたつもりです。正直なところ、私がレエヌと結婚しようと決心したのは、そうでもしたら、レエヌを、……あの、手のつけられない不良少女《アンファン・テリイブル》を正常《ノルマル》な性格にひき戻すことができるかと考えたからなんです」
と、いって、苦味のある微笑をうかべながら、
「ところが、当のレエヌは、婚約披露の晩餐の席で、突然立ちあがって、わけのわからない自作の詩の朗読をやり出す始末なんです」
「どんな詩だったのでしょう」
「いや、とるに足らない無意味《ナンセンス》なもんなんです。……なんでも、こんなふうでした。……(鴎《かもめ》、鴎、鴎に故郷はない。……陸《おか》も自分の故郷ではない、海も自分の故郷ではない。……今日もまた空の下の涯《は》てない漂泊……)……まあ、だいたい、こんな工合なものでした。……ところで、鴎が、いったい、どうしたというんだ。鴎とわれわれの婚約に何の関係があるというんです。……みなふき出すやらあっけにとられるやら、さんざんなていたらくでした。……ああ、何が気にいらなくてあんなすねたような事をするのだろう。あのちっぽけな頭の中に、どんな悪魔が巣を喰っているというんだ!」
ピエールさんは、ありったけの憤懣《ふんまん》を吐き出すといった調子で、
「あんな手に負えない|しろもの《クレアチュウル》と、……失礼、乱暴な言葉をつかって、ごめんなさい。……あんな手に負えない娘とこれからずっと一緒にやって行くのだと思うと、考えただけで気がめいってしまいます。……私はあまり、感傷的だった。……父も、このごろ、遠廻しにそんな意味のことをいいます。たしかに、そうに違いない。私の向う見ずな同情は、生涯、私の後悔の種になることでしょう」
見苦しいようすを見せまいとして、押しだすような微笑をうかべながら、
「……日本からヴァンクウヴァへやって来たのが、あなたのようなお嬢さんだったら、それこそ、どんなに有難かったか!」
そういうと、眼に見えないくらい頬をあからめて、
「これは冗談です。どうか気になさらないでください。…人間というものは、取り乱すと、心にもないことを口走るものですからね。……ああ、よくしゃべくった。……風が冷たくなって来ましたね。もう、そろそろ、船
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