さんが、キャラコさんのほうを向いて、ちょっと、片眼をつぶって見せる。
「……あれ、ピゲェの一九三八年の|変り型《ファンシイ》よ。去年の(ヴォーグ)にのってたわ」
 キャラコさんも、見て知っている。たいへんだなア、と思って恐縮する。でも、きこえてはたいへんだから、あたりさわりのない返事をしておく。
「みごとね」
 ピエールさんは、困ったような顔でそのそばへ行って、もう、頭痛はなおったのかと、たずねる。
 レエヌさんが、突《つ》んぬけるような声で叫びだした。
「うるさくて、寝ていられません」
 これで、一座がしんとなる。
 レエヌさんの部屋は、ここからずっと離れた船尾のほうにある。そこまでこの騒ぎがきこえるはずはないのだが。
 アマンドさんが立って行って、いつも変わらぬ寛容なようすで、
「それは、悪かった。もう、よすよす……静かにしているから、行っておやすみ」
 これで、折れてくるかと思いのほか、いっそう気狂いじみたようになって、
「出て行くのは、あたしじゃない。あたしはここにいるんだ!」
 と、叫びながら、地団駄をふむ。
 我ままなことは知っているが、こうまでの狂態はさすがに今まで見たことがなかったので、みな、あっけにとられて黙り込んでしまう。
 キャラコさんは椅子にかけて、おだやかにほほえんでいた。
 レエヌさんはまだ遠廻しにしかいっていない。お前、ここから出て行けとはっきりいったら、その時いってやることは、ちゃんときまっている。それまではじっとしていればいい。しかし、これは、なかなか勇気のいることだった。胸がふるえて来てとめようがない。
 キャラコさんは、やはり聡明だった。この騒ぎは、これ以上発展しなかった。ピエールさんが、やさしい口調でなだめて、とうとうしずめてしまった。
 みなの眼が、じっとレエヌさんを眺めている。さすがにレエヌさんもいにくくなったと見え、椅子から立ちあがると、扉《ドア》のところで、憎悪をこめた眼つきでキャラコさんのほうをふりかえって、
「ミリタリズム!」
 と、聞えよがしにつぶやいて、出て行った。
 これは、すこしひどい。
 みなが、ハッとしたようすで、キャラコさんのほうをぬすみ見る。
 キャラコさんは、のんびりした声で、いう。
「もし、負けていたら、あたしだったら、もっと腹を立てかねませんわ。……負けるって、あたし、ほんとうに嫌いよ。……ほ
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