。
原田氏は、とっさに身をひるがえすと、二人のそばへ飛んでいって、岩側と二人の間に自分の躯を差しいれた。
屏風倒《びょうぶだお》しに倒れて来た幅の広い岩側は、牛のような頑丈な原田氏の肩でガッシリと防ぎとめられたとみえたが、それも束の間のことで、原田氏は岩盤に押されて海老のように躯をおしまげられてしまった。原田氏の頸《くび》に、打紐《うちひも》のような太い血管がうきあがり、顔は朱《しゅ》を流したようにまっ赤になった。
山下氏と三枝氏は、原田氏のそばへ駆けよって、力を合わせて落盤を支えようとすると、原田氏は、切れぎれに叫んだ。
「逃げろ! おれの股《また》の下をくぐって!」
二人は、原田氏を見捨てて逃げ出す気にはどうしてもなれなかった。一緒になって岩につかまっていると、原田氏は、地鳴りのような声でほえたてた。
「馬鹿野郎! 俺を殺す気か。……君達が逃げ出せば、俺も助かるのだ。早く、俺の股の下を!」
原田氏は、そういうと、何とも形容のつかぬうなり声を出しながら、肩の岩盤を押しかえしはじめた。
二人は、すぐその意をさとって、いわれた通りに原田氏の股の下をくぐりぬけて入口の方へ駆け出した。
原田氏は、二人が無事にぬけ出したのを見ると、肱《ひじ》と肩を使って微妙に身体をひねりながら、恐ろしい重さでのしかかってくる岩盤の桎梏《しっこく》のしたからツイとすりぬけた。
そこまでは、たしかにうまくいったが、急に支えをはずされた岩盤は、えらい速さで洞道《どうどう》の上に倒れかかり、まさにはい出し終わろうとしている原田氏の右の足首をおしつぶしてしまった。
原田氏は、膝《ひざ》から下を血みどろにして、三枝氏におわれて小屋へ帰って来た。
この時も、キャラコさんは、たいへんに沈着だった。
分析台の上に寝かされた原田氏の足首が石榴《ざくろ》のようにグズグズになり、はじけた肉の間から白い骨があらわれ出しているのを見ても顔色ひとつかえなかった。その度胸のよさといったらなかった。
山下氏と三枝氏が、気ぬけがしたようにぼんやり突っ立っているうちに、キャラコさんは鋏《はさみ》でズボンを切り開き、手早く清水《しみず》で傷口を洗うと、左手でギュッと原田氏の脚《あし》をおさえながら沃度丁幾《ヨードチンキ》を塗りはじめた。
原田氏が、牛のような声でほえ出した。
「ああ、灼《や》けるようだ。気が遠くなる」
蒼ざめた額に玉のような汗をかき、身体じゅうを痙攣《けいれん》させながら悲鳴をあげた。
「もう、よしてくれ。足なんかいらないから、もう、よしてくれえ。死にそうだ」
キャラコさんは、やめない。しっかりした声で、激励する。
「もう、一、二分。……すぐすんでしまいますわ。もう、ほんのちょっと!」
そういう間も手を休めずに、セッセと沃度丁幾《ヨードチンキ》を塗る。
原田氏は、ありったけの力をふりしぼって叫び立てる。
「もう、よしてくれ!……おれの足へそんなものを塗ったくっているのは誰なんだ!……おい、誰だってえのに!」
キャラコさんが、手を動かしながらこたえる。
「あたしよ。……もう、ちょっとだから我慢してちょうだい」
原田氏が、急に黙り込んだ。もう、うんともすんとも言わなかった。頭をまっ赤にふくらせ、ギュッと歯を喰いしばって、とうとう我慢し通してしまった。
二人が病床についてから、もう、一月近くになる。
この六つめの山も、今までのそれと同じように、あまり好意のある反応を示さなかったが、山下氏と三枝氏は、たゆむことなく、毎日、朝はやく谷間へ降りて行った。
夕方になると、二人は疲れたようなようすをして小屋へ帰ってくる。
原田氏は、
「今日は、どうだった?」
ときく。黒江氏も、ささやくような声でようすをたずねる。
すると、山下氏は、判《はん》でおしたように、
「いいほうだ」
と、かんたんにこたえた。
キャラコさんも黒江氏も原田氏も、山下氏がそういう以上、鉱山《やま》はすこしずつうまく行っているのだろうと思っていた。ところが、それは嘘だった。
それから、また五日ほどたった夕方、遅くまで二人が帰って来ないので、河原まで迎いにゆくと、二人は鉱坑のそばの石に腰をかけて、白い夕靄《ゆうもや》のなかでこんな会話をしていた。
靄の向うで、つぶやくような山下氏の声が聞える。
「いよいよ、この山ともお別れだ」
ながい間《ま》をおいてから、三枝氏の声が、こたえた。
「そう、いろいろなものとお別れだ」
「いろいろなものに……」
山下氏としては、珍しく感情のこもった声だった。
また、ポツンと間があく。渓流《せせらぎ》の音が、急にはっきりと聞えだす。
山下氏が、つづけた。
「われわれの労苦がむくいられることなどは、すこしも期待していなかったのに、思
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