はその証拠だとかんがえていたのである。途方に暮れて、その顔をぼんやり見あげていると、山下氏がいかめしい声で、いった。
「寝るなら、どこかほかのところへ行って寝てください」
 キャラコさんの心臓が瞬間、キュッとちぢこまった。が、すぐ元気をとりなおして、しっかりした声でききかえした。
「あたし、出て行かなくてはなりませんの」
 山下氏は超然とした眼つきで、黙ってキャラコさんの顔を見つめている。
 ……それは、いまいったばかりだ。
 キャラコさんは、蚊の鳴くような声で、つぶやいた。
「……あたし、ここにいたいのですけど」
 対等でものをいうつもりなのだが、いつのまにか哀願するような調子になっているのが情けなかった。
 山下氏が、詰問《きつもん》するような口調でたずねた。
「なんのために?」
 キャラコさんは、できるだけまっすぐに胸をはると、
「あたし、あなたがたのお手伝いをしたいのです。……力のつく食物をこしらえてあげたり、女でなければできないような細かいことをしてあげたいと思って、それで……」
「たいへん、有難いですが、見ず知らずのあなたに、そんなことをしていただくいわれはない。だいいち、われわれは、あなたの助力などを必要としないのですから」
 キャラコさんは、熱くなって、大きな声をだす。
「いいえ、それはちがいます。あなたがたは、ご自分たちが、どんな不経済なことをしているか、まるっきり気がついていらっしゃらないのです。仕事が大切ならばそれだけ、ちゃんと喰べたり、適当な休養をとったりする必要があるんです。そんなことをうまくやってあげるためにあたしの助力が……」
 ここまでいったところで、キャラコさんの言葉はピタリと唇の上で凍りついてしまった。冷然と自分を眺めている山下氏の無感動なようすが、キャラコさんのこころをすくみあがらせた。
 キャラコさんは、顔をあげて、山下氏のうしろにある三つの顔を順々に眺めたが、じぶんのきもちを理解してくれそうなやさしい眼差しを発見することはできなかった。穏和な黒江氏の眼さえ、はっきりとキャラコさんを追い立てている。
 これで、おしまい。いわれた通り、ここから出てゆくよりほかはないのであろう。
 キャラコさんは、背嚢《ルックザック》を取りあげてそれを背負うと、黙って戸口のほうへ歩きだした。
 いつのまにか空が曇り、霧のような雨が、しんとした夜気
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