キャラコさんは、こんな事をかんがえながら、一方では、穴ぼこのなかからやさしく佐伯氏を助け起こしている。
 どんなに腹を立てようと思っても、どうしても思うようにならない。
 キャラコさんは、幻想を払いのけるために、えへん、と大きな咳払いをする。
「こんなことじゃしようがないわ」
 自分があまり感傷的《センチメンタル》なのが不愉快になってきた。
「むやみにひとに同情しやすくて困るわね。だから、みなあたしのことを馬鹿だと思っている。もう、十九にもなったんだから、そろそろこんな性質にうち勝たなくては!」
 キャラコさんは、額に皺《しわ》をよせむずかしい顔をしながら、決心する。
「ともかく、もっと強い意志を持つことだわ! あんな意地の悪いひとなど放っておけばいい」
 これで、ようやく安心する。枕を置き直して眼をつぶる。
 間もなく眠くなってきた。
 キャラコさんは、うつらうつらした半睡《はんすい》の中で、あす早く起きて、佐伯氏が散歩する道の石ころをみな取りのけておこうとかんがえていた……。

     三
 次の日の夕方、いつものように疏水《そすい》のほうへ散歩に行くと、佐伯氏がそこの枯蘆《かれあし》の間にあおのけに寝ころんでいた。
 またうるさがらせてはいけないと思って、猫のように足音を忍ばせながら、そっといま来たほうへ帰りかけると、とつぜん、佐伯氏が声をかけた。
「ああ、きのうのお嬢さんですね」
 キャラコさんは、ギョッとして立ちどまった。
「ええそうよ……。あたし、あちらへまいりますわ。お邪魔してはいけませんから……」
 佐伯氏は、あわてたように身体を起こすと、
「邪魔だなんて、……よかったら、……すこし、話して行ってください」
 そういって、狭い蘆《あし》の間で、すこし身体をすさらした。
 とげとげしたところはなく、今日はたいへん静かな口調だった。
「でも、あなたひとりでいらっしゃるほうがお好きなんでしょう。気がつかないでこんなほうへやって来てしまって……。あたし、やはり、あちらへまいりますわ」
 佐伯氏は、唇のはしに神経質な微笑をうかべながら、
「そんなに気をつかってくださらなくとも結構ですよ。……でも、あたしのようなものとお話になるのがおいやなのなら……」
 キャラコさんが、あわてだす。
「あら、そんなことありませんわ。いやだなんて……。あたしは、ただ、お邪魔してはいけないと思っただけなの。……お差しつかえなかったらここへ坐ってよ」
 へどもどしながらそばへ並んで坐ると、佐伯氏は頬骨《ほおぼね》の上のところをすこしあからめながら、
「きのうはずいぶん失礼なことを申しました。どうか、ゆるしてください。疲れてイライラしていたせいなんです。……おわかりになりますまいが、こんな不自由な身体で長い旅行をすると、思うようにゆかないことが多くて、ついいら立ってしまうのです」
「どんなにかご不自由なことでしょうね、お察ししますわ」
「有難う。……感のわるいところへ持ってきて、すこしわがままなもんだから、なんでもないことにすぐ腹を立ててしまうのです。結局、自分の損なんだけど……」
「まだお馴れならないせいもあるでしょうし……」
「そうですよ、なにしろ、俄かめくら[#「めくら」に傍点]でね」
「そんな意味でいったのではありませんわ」
「気になさらないでください。どうしてでしょうかね、つい、こんな口調になってしまうのです。……眼が見えなくなったという事実にたいしては、すこしも遺憾はないのですが、日常の直接なことにあまり不便が多すぎるので、じぶんで始末がつかなくなってしまうのです」
 キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔をながめていた。それにしても、あの茜《あかね》さんというひとがなぜもっと佐伯氏をいたわってあげないのだろうと考えていた。散歩についてくることもなければ、廊下などで手をひいてやるところも見たことがない。いつも、ひとりで放っておく。いったいどうしたというのだろう。盲目《めくら》の兄と一緒にいるところをひとに見られるのを嫌《いや》がっているようにもみえる。もし、そうなら、すこしひどすぎるようだ。それも、戦争で失明されたのだというのに。
 キャラコさんは、すこし腹が立ってきた。……しかし、なにか事情のあることか知れないし、自分が差し出るような性質のことではないので、そのことには触れなかった。
 佐伯氏は、しばらく黙り込んでいたが、ふいにキャラコさんのほうへ顔を向けると、
「それにしても、あなたは、いったい、どういう方なのですか、お嬢さん?……声のようすだとたぶん、十九ぐらい……」
 キャラコさんが、笑いだす。
「当りましたわ。……あたし、十九よ」
「ずっと、ここにおいでなのですか」
「ちょうど、半月になりますわ」
「失礼ですが、どなたと?
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