とふみにじられるのかと思うと、心の底から怒りがわいて来て、どんなことがあっても娘を奪いかえさなくてはならないと奮い立った。もう必死だった。子供の愛情のまえには、なりもふりもかまわなくなる、母のあの崇高な錯乱だった。
 端正《たんせい》に膝《ひざ》に手を置いてしずかに微笑しながら、森川夫人はこころのなかで泣いていた。悲しみとも憤《いきどお》りともつかぬ痛烈な涙が、胸の裏側をしとどに流れおちた。
「……あなたは、いつもお美しいわね。あれから、もう何年になりますかしら。ちっともお変わりにならないわ」
 チャーミングさんの頬に、瞬間、血の色がさし、悩ましそうな眼ざしで、森川夫人を見つめながら、
「十八年! ……あのひとのことを、たった一日も忘れたことのない十八年……」
 感情を押ししずめるように、すこし、息をとめてから、
「……私はさんざんに放蕩をしましたが、いつも、私の心の奥に住んでた、たったひとつの俤《おもかげ》は、いちばんはじめに、私の胸に訪れた、|伊太利風の夏帽子《シャポオ・ド・パイユ・デ・イタリイ》をかぶった、シャヴァンヌの絵のようなあのひとの俤だったのです」
 森川夫人は、思わず怒
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