い焦《あせ》り気味になってしまう。
(ともかく、すこしでも早く行きつかなくては!)
 無事なうちにつかまえることができたら、娘への愛のために、錯乱して嘘までいう母の心というものをわからせて見せる自信があった。それさえ説明すれば、自分の不幸な恋愛が、頭の弱い母をどんなに悩乱させたかはっきりと了解するにちがいない。
 今、さし迫った問題は、神秘的なようすをしたあの青い池の水が梓さんを呑み込む前に、うまくそこへ行きつけるかどうかということだった。さすがに、気が気でなかった。
 天狗岩の下まで行きつくと、近道をするためにスキーもはいらないような藪《やぶ》の深い急坂勾配《きゅうはんこうばい》[#ルビの「きゅうはんこうばい」は底本では「きうはんこうばい」]をまっすぐに登りはじめた。見透しもつかないほどの密林で、それに、セカセカと急ぐので足の調子がうまく行かなかった。海豹皮《シール》がきかなくなってズルズルとすべり落ち、そのたびに雪の積った枝に足をとられてみごとにひっくり返った。藪がひどいのとルックザックを背負っているのとで、起きあがるまでの苦労はなみたいていのことではなかった。
 汗が顎《あご》を伝わって胸のほうへ流れ込み、咽喉《のど》がカラカラに乾いて呼吸《いき》をするたびにヒリヒリと痛んだ。このままここでへたばってしまうかと思われるようにひどい苦しさに耐えながら、笹や木の枝につかまって一歩一歩登って行った。
 見あげるような大きな岩塊のすそを廻って、ようやくその上へはいあがると、すぐ眼の下に木戸池が西洋の手鏡のようなかたちをして、ひっそりと銀色に光っていた。
 池を取り巻いている落葉松《からまつ》の林の中に、黒い人影がひとつ見える。
 梓さんだった。
 梓さんは、雪の上に坐ってぼんやりと池を眺めていた。
 キャラコさんは、思わず心の中で叫んだ。
(間に合ってよかった!)
 キャラコさんは、大きく呼吸《いき》を吸い込むと、池のほうへ逆落《さかおと》しになっている急傾斜をすべり降りはじめた。樹《き》の空《あ》いているところを見透かしては、十尺ぐらいの空間を直滑降で飛ばし、樹《き》の幹《みき》のすぐ前で雪煙りをあげて急停止する。キャラコさんは、スキーに大《たい》して自信がないので、それこそほんとうに、命がけの仕事だった。
 やっとの思いで密林の急斜面をすべり降りると、池の縁《ふち》についてゆっくりと梓さんのほうへ近づいて行き、スキーをぬいで、黙ってそのそばに並んで坐った。
 梓さんは、キャラコさんがやって来たことに気がつかないように、振り向いても見ようとしない。吸いとられるような眼つきで、薄氷《うすごおり》の張った池の面《おもて》をジッと見つめている。頬も唇もすき透るように蒼くなって、まるで蝋人形のようなようすをしていた。
 キャラコさんは、なんともつかぬ深いため息をつく。
 いいたい事はいろいろあるし、どうすれば慰めることができるかよく知っていたが、そんなことは、まるっきり必要がないように思われ出してきた。こうして黙ってそばに坐ってさえいれば、それで、充分心が通ずるのだと思った。
 月が、西へ廻り、雪の上の影が、ゆっくりと池の水ぎわのほうへ移って行く。
 永久とも思われるような長い時間だった。二人はひとことも口をきかずに、ひっそりと雪の上に坐っていた。
 キャラコさんは、もう山小屋《ヒュッテ》のことも、森川夫人のことも、芳衛さんたちのことも、なにひとつほかのことは考えていなかった。雪の冷たさも、夜の寒さも、まるっきり感じなかった。ただ梓さんが気の毒で、そのことだけでいっぱいだった。
(いま、どんな悲しい思いが梓さんのこころの中にあるのだろう。……でも、梓さんは、ひとりでいるのではない。こうして、あたしが、そばに坐っている……)
 このことだけは、いくぶんでも梓さんを慰めるにちがいないと思った。
 ほのかな夜明けのけはいがして、林の中で小鳥が、チチと鳴きはじめた。
 キャラコさんは、ふと気がついて、ルックザックから魔法瓶《テルモス》を取り出し、熱い紅茶を茶碗に注《つ》いで、それを梓さんのほうへ押しやった。
 梓さんは、チラと眸《ひとみ》をあげ、大きな深い眼でキャラコさんの顔を眺めると、おずおずと茶碗のほうへ手を伸ばしてそれをとりあげた。両手の中に茶碗をはさんで、しばらく手を温めてから、そっと口のほうへ持って行った。
 キャラコさんが、低い声でたずねた。
「美味《おい》しくて?」
 梓さんが、眼を伏せたまま、コックリと、うなずいた。
「……やはり、生きていてよかったわ。……なんであるにしろ……」
 そういって、飲みかけた茶碗を雪の上に置くと、両手を顔へあてて劇《はげ》しく泣き出した。



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−
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