しずかにね」
 梓さんは、両手で森川夫人の手首をつかむと、ギュッと力いっぱいに握りしめながら、
「ママ! あたし、その方と結婚するお約束をしたのよ。反対したりしないでね!」
「まあ、困ったひとね。急にそんなことをいい出して。……あなた、ママにそんな話をするの、すこし、早すぎやしない?」
 梓さんは、怒ったような顔つきになって、
「あたし、もう、子供じゃありません」
 森川夫人は、ぎょっとしたようすで梓さんの顔を眺めていたが、救いを求めるような眼つきでキャラコさんのほうへふりかえった。
 小さな時、脳をわずらったことのある気の毒な森川夫人は、こんな話になると頭の奥のほうがクラクラして、どうしていいかわからなくなってしまうのだった。
 それにしても、梓さんはいったい何をいいだすつもりなんだろう。何かおそろしいことをぶちまけそうで、キャラコさんは、すこし恐《こわ》くなって来た。
 森川夫人は、必死な微笑をうかべながら、
「そう、あなたはもう子供じゃないのね。……そんなら、どんなふうに、その方が好きになったか、ママに話せるわね」
 梓さんは、まるで暗記でもするような、抑揚《よくよう》のない調子でいいだした。
「ええ、話せます。……その方はね、画の勉強をして、長い間たいへん奮闘したひとなの。いろんなつらい目にあっても、絶望せずにいっしょうけんめいにやり通したのよ。……そんな話をしていると、あまり悲しいことばかりで、その方は泣き出してあとをつづけることができなくなるの。そして、その気持をいろいろなたとえをひいてあたしに説明してくださるの。あたし、そのお話をきいていると、なんともいえないほど気持が沈んできて、急におとなになったような気がするんです」
「それで、あなたのほうでは、どんなお話をするの」
「あたし、まだ子供だから、あなたを慰めてあげることはできませんね、って」
「すると、その方は、どうおっしゃるの?」
「いいえ、あなたは、どんな大人よりもっと大人ですって、おっしゃるの。聡明でもなく、心もやさしくないひとは、いくつになっても子供とおなじなのですから、って。……だから、あなたがこうして私のそばにいてくださるだけで、ずいぶん元気が出るんです。ずっとずっと長くそばにいてくだすったら、もっともっと勇気が出るでしょう、って。……だから、あたし、その方と結婚することにしたの」
「あな
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