今まできこえなかった小鳥の声がのどかにひびいてくる。
秋作氏は窓ぎわの椅子にかけ、いぜんとしてこちらへ背中を向けたまま、塑像《そぞう》のように微動もしない。キャラコさんは秋作氏のたくましい肩をながめながら、よくあんなに動かないでいられるもんだと思って、急におかしくなって、もうすこしで笑いだすところだった。
(小供が意地っ張りをしているような恰好ね。なにをあんなに考え込んでいるのかしら。……たぶん『黒いお嬢さん』と喧嘩でもしたんだわ)
秋作氏は長六閣下|末弟《ばってい》の子で、従って槇子たち同様、キャラコにとっても従兄《いとこ》にあたる。早くから両親《ふたおや》をなくして、苦労しながら絵の勉強をしている。沼間夫人いうところの『乞食画かき』である。
秋作氏は、銀行家の沼間氏も、虚栄坊《みえぼう》の夫人も二人ながらだいきらいで、沼間夫妻をいつもあいつら[#「あいつら」に傍点]という代名詞で呼んでいる。しかし、槇子だけは好きだったとみえ、昨年の秋ごろ、槇子をもらいたいとたいへん熱心にたのみこんだが、アッサリとはねつけられてしまった。それまではずいぶん仲よくしていた槇子だが、その話になると、手のひらをかえすように、
「あなた、貧乏だから、いや」
と、はっきりしすぎるくらいはっきりと断わった。
秋作氏が知っていた槇子は、すくなくとも、こんな了見の狭い娘ではなかったはずだったが、論より証拠で、やはり自分の計量ちがいだったと思うよりほかはなかった。
しかし、あまりな返事なので秋作氏も不愉快になり、槇子に、貴様《きさま》はクソみたいなやつだぞ、とひどいことをいったということを、あとでキャラコさんがきいた。
秋作氏はそれっきり沼間氏の一族と交渉を絶《た》ってしまった。腹を立て、飲んだくれて歩いているという評判もあったが、その秋作氏が、つい二日前、卅二三の、すこし薹《とう》のたったお嬢さんと二人でフラリとこのホテルへやって来て沼間夫人を驚かした。
そのお嬢さんは、へんに煤黒い、ひどい斜視《すがめ》の、棒を嚥《の》んだようなヌーッとした感じのひとで、眉目秀麗な秋作氏と並ぶと、一種、対照の妙を示すのだった。『社交室』の特報によれば、たいへんな持参金がついているので、名古屋の上流では誰ひとり知らぬものもない有名なお嬢さんだということだった。
秋作さんが、この『黒いお嬢さん』と二人で食堂へはいってきたとき、沼間の一族もそこにいた。しかし、槇子は、この二人づれを見てもなんの反応も示さなかったし、秋作氏のほうもチラリと見かえったきりで、一向顔色も動かさずにずんずん奥のテーブルのほうへ行ってしまった。二人ながらあまりさっぱりしているので、キャラコのほうがかえって驚いたくらいだった。
秋作氏は、もう四五年、長六閣下のところへやって来ないが、毎年クリスマスになると、かならず、とぼけた玩具《おもちゃ》や小さな人形をキャラコさんに送ってよこした。みな粗末なものだったけれども、キャラコさんはうれしかった。長六閣下も、あまり気立てが優《やさ》しすぎる、しょせん、軍人にはなれんやつじゃ、といっている。その秋作氏としては、ちと、どうかと思うやりかたなのである。
秋作氏が、やっと身動きする。のびをして、もの臭《ぐさ》そうに椅子から立ちあがった。
静かにしていたので、ここにキャラコがいることに気がつかなかったらしい。びっくりしたように、遠くからまじまじと眺めてから、大股で歩いて来てキャラコさんの前に突ったった。
(秋作氏は美しいな)
下から仰ぎながら、キャラコさんは、そう思う。
秋作氏は今年三十三になる。スラリとした美しいフォルム。喰いつきたいほど形のいい腰。切れの長い鋭い眼。顔は浅黒くひきしまっていて、いかにも理智的な、俊敏な風貌だ。
「おい、どうしてこんなところにいる」
「あたし、ひとりのほうがいい」
「妙なやつだな。みなお茶を飲みに行ったぞ」
「お茶なんか、飲みたくない。……誰もいなくなったら、ひとりでピアノをひいて遊ぶつもりなの」
「ふうん、では、おれの出て行くのを待ってたのか」
キャラコさんは、正直なところを、いう。
「ええ、そうなの」
秋作氏は、てらい気のない、素直なこの従妹《いとこ》がだいすきだった。小さい時から、親切で、謙譲《ひかえめ》で、誰からでも愛される不思議な徳を持っていた。ほかの子供なら、ずいぶん憎らしくきこえそうなことでも、この娘がいうと妙に愛嬌になるのだった。
誰をも好き、誰にでも愛想がいいが、そのくせ、粗忽《そこつ》に知己をつくらぬしっかりしたところがあり、理解力と感受性が豊かで、どんな物事に対しても妥当な判断を誤まらず、何に対しても極めて穏健な意見をはいた。女学校時代には『常識《コンモン》さん』という綽名《あだな》を
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