と、いうと、キャラコさんの方へ向き直って、こんなふうに、たずねた。
「剛子さん、あなた、お受け下さるでしょうね」
 キャラコさんが、アッサリとこたえた。
「ありがとうございます」
 まるで、ボンボンの箱でももらったような簡単な挨拶だったので、みな、声を合せて笑い出した。
 秋作氏が、とつぜん立ちあがって、こんなことをいった。
「剛子の美しい性情は、質素の家庭に育ったためにいよいよ磨かれることになったともいえるのです。……この娘にそのような大金をお与えくださるのは有難いけれど、そのために剛子のすぐれた性質をだめにしてしまいませぬかと、それを恐れます。……失礼なことを申すようですが、人間の美しい性質に比べると、金などは、たいして価値のあるものではありませんからね」
 山本氏は微笑を浮べながら胸のチョッキから一枚の小切手をとり出し、
「お言葉ですが、私は、剛子さんが、金などで性情が損《そこな》われるような方でないと信じています。……では、最後の決定をする前にこういうことをしましょう。……ここに、即座に使われていい二十万円の金があります。これを、どういうふうに使われるつもりか、明日の朝までに返事をしていただきましょう。その使い方が、何びとも至当だと思う、最も自然な、最も有用な使い方だったら安心して財産をお任せすることにしましょう。それで、いかがですか?」

 次の朝、『社交室』で、槇子と猪股氏の婚約が取り消され、槇子と秋作氏の婚約が発表された。山本氏も『社交室』の一同も、この廿万円の使い方は、最も自然で最も正当だと是認した。
 ホテルの一同は、開通したばかりの伊豆の停車場まで山本さんを送っていって、プラット・ホームで万歳を三唱した。
 山本氏の半白の鬢《びん》のあたりに、朝日がキラキラと輝く。山本氏は車窓から半身を乗りだし、しっかりと口を結んだまま一同の万歳にうなずいていた。
 キャラコさんは、感動して、声が出なくなってしまった。喉の奥のところに固いかたまりのようなものができて、いくど咳払いをしてみてもらくにならなかった。



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年1月
前へ 次へ
全31ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング