まり、いままで傷病兵と祝盃をあげていたというわけか。ヘッ、こいつァいいや」
キャラコさんはおかしくなって、思わず、ぷッと噴き出した。
槇子は、きッとキャラコさんの方へふりむくと、
「おやッ、笑ったナ」
蒼くなって、眼をすえてキャラコさんをにらみつけていたが、突然、
「生意気だよッ、貧乏人」
と、叫ぶと、いま、ボーイが置いて行ったばかしの熱いポタアジュのはいった皿を取りあげてキャラコさんの顔へ投げつけた。
身をかわすひまもなく、皿はまともにキャラコさんの胸にあたって、顎《あご》から胸へかけてどっぷりとポタアジュを浴びてしまった。青豆のはいったどろどろのポタアジュが、衿《えり》から胸の中へ流れ込んで、飛びあがるほど熱いのを、そっと奥歯をかんでこらえた。
広い食堂の中には、まだ六、七組の客が残っていて、あっけにとられたような顔でこちらを眺めている。
キャラコさんは、長六閣下に、小さなことに見苦しく動ずるなと教えられている。キャラコさんにとってこれは大切な服だけれど、すぐホテルのランドリイへ出せばそんなにひどくなるはずはないし、もともと自分が笑ったのがいけないんだから、と、すぐ考えついて、素直に槇子にあやまった。
「マキちゃん、ごめんなさい。あたしが笑ったのが悪かったの」
槇子はそっぽを向いて返事もしない。麻耶子は痛快そうに、眼の隅からジロジロとキャラコさんの顔を眺め、沼間夫人は眉も動かさずに、ご自慢の白い手で静かにスプーンを使っている。
キャラコさんは、早く洗濯屋《ランドリイ》へ駆けつけたいのだが、中座していいものかどうかと迷っていると、いつの間にかうしろに秋作氏が来ていて、腕をとって椅子から立たしてくれた。
槇子はそれを見ると、いまにも痙攣《ひきつ》けそうな物凄い顔になって、
「秋作、馬鹿ッ、馬鹿ッ」
と、叫びながら、二人を目がけて手当りまかせに食卓の上のものを投げつけ、投げるものがなくなると、こんどは自分の服をピリピリとひき裂き始めた。
「みんなで、あたしひとりをいじめるッ。……よゥし、死んでやる、死んでやるから」
二人が食堂を出てしばらく行ってからも、キンキンと槇子の声がひびいていた。
服を着換えて社交室へおりてゆくと、社交室にはワニ君の一団と沼間夫人と越智氏と猪股《いのまた》氏がいる入口に近いいつもの椅子で、『キャラコさんの恋人』が静かに
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