がらサト子のいるほうへやってきた。
「坂田さん、しばらく……あたし、あなたにおわびしなければならないことがあるのよ」
坂田は黒々と日に焼けた顔を反らせて、
「どんなことです? 私にわびることなんか、ないはずだが」
三十二枚の歯をそっくりみせて、おおらかに笑うと、
「オプションをはじめる前に、苗木の谷の鉱業権を、一ドルで水上氏に売り付けられた当時のことを説明しないと、ひとをだますことになる……そうでなくても、あまり、よく思われていないんだから」
由良ふみ子が冷淡に突っぱねた。
「あなたの言いたいことはわかっています。簡単にやってください」
「水上氏が三万カウントのサマルスキー石を持って、アメリカへ帰って来た。原子力委員会の裏付けがあったので、この石が苗木の谷から出たという確証があれば、一鉱区五万ドルで買ってもいいという買手がついた……」
由良があとをひきとった。
「一鉱区、五万ドルとして、三百五十万ドル、十二億六千万円……ね?」
「七十鉱区だから、そういう計算になりましょう」
由良がグイと背筋をたてた。あばれだすときの癖なので、なにを言うつもりなのかと、サト子は遠くから叔母の顔を見まもった。
「それを、あたしとサト子とで糶《せ》るわけ?」
「私としては、だれに売ったっていいのだが、あなたを除外するとおさまらないでしょうから、こんな余計なこともするんです」
「そんなら、オプションなんか、することはないわ。父の遺言どおりに、そっくりサト子にやったらいいじゃありませんか」
一座が、しんとした。どこかで鶯《うぐいす》が鳴いている声が聞えた。
「坂田さんはひとが良いから、父の妄想をいたわってやる気で、一ドルも払ったのでしょうが、あたしは父を愛していないし、ムダなことは大きらいだから、ただの十円だって出したくはありませんね」
有江が、つぶやいた。
「水上が、なぜ長女に遺産を譲りたがらなかったか、ミイにも、よくわかったよ」
由良が手きびしくやりかえした。
「父と同様、あなたもだいぶオメデタイかたのようだわ。十二億六千万円……なんという夢を見たんでしょう? 山師だの山見《やまみ》だのという連中は、熱にうかされた子供みたいなもんだから、アメリカ人の空《から》約束で、ひと財産、つかんだような気になったのでしょうが、苗木の谷になにがあるというんです?……行ってみて、あきれてしまったわ。千分の一ぐらいは、それらしいものを含んでいるでしょうが、煎《せん》じつめたところ、天然ウラニウムといっている石ころ同然のものじゃありませんか……ウラニウムにたいする政府の態度がきまらないから、買上げを期待することもできない。何百万もかけて、選鉱と精練の設備をしてみたところが、平和工業に利用できる『二三五』を出すなんて、いつのことだか……それだって、アメリカから原鉱を輸入するようになったら、日本のウラニウムなんか、使いものにはならない……そんなものに、これから先何年か、試掘料と鉱区税を払うのでは、ひきあうもんじゃないから」
坂田が皮肉な調子で言った。
「私の計算とは、すこしちがうようですね。無価値どころか、役に立ちすぎて困る面があるんですよ。現に、ウィルソンという男が三万ドルで買いかけたじゃないですか」
「偽ドルでね」
「たとえ、なんだろうと」
「偽ドルで結構はないでしょう……山岸の芳夫が、こっちへ持って来るはずのものを、サト子のところへ運んで行ったので助かったけど……」
由良は説いて聞かせる調子で、
「はじめ、軍票ドルで持って来ましたが、突っ返してやったわ……その軍票は、偽の本国ドルと引替えに、横須賀のパンスケたちに集めさせたものらしい。それがわかったもんだから、パンスケたちがおこって、仲介した女とウィルソンをめちゃめちゃにひっぱたいたという騒ぎ……サト子さん、あなたを養っていた大矢という飯島の漁師の娘は、砂袋で叩かれて聖路加に入院しているそうよ……警察部の中村というひとが言っていたけどカオルさんも、ドイツ人と組んで、ひどいことをやりかけていたそうだし、神月が自殺したのも、つまりは偽ドルの係りあいだったらしい。あなたも気をつけたほうがいいわ」
さんざ、いやがらせを言ってから坂田に、
「私はもうコリゴリ……あの鉱山には、一切、関係しませんから、そう思っていただくわ」
坂田がいかめしいくらいな口調でサト子に言った。
「私がなにより恐れたのは、十二億六千万円という、想像の値うちのことでした。あの鉱山に何百万円かかけて三百尺も掘ったら、十二億以上のものが出るかも知れないが、それは未来のことで、現実は零に近い……十三億というのは、相当、しっかりした頭でも狂いださせるに足る金だから、有頂天にしたあとで、じつは零だったというような話なら、聞かせないほうがマシだと思って、きょうまで、ひと言も言いませんでした」
「それは、さっき秋川さんから伺いました」
「私は鉱山の仕事に嫌気がさして、親父のやっていた、清浄野菜つくりに商売替えした人間です……あなたに渡して、一日も早く身軽になりたかったが、それでは、重荷をあなたの肩へ移すだけだと思って、今日まで辛抱していましたが、だいたい、むずかしいところは切抜けたようだから、これからは、あなたがやってください……一ドルで買ったものだから、三百六十円でお売りします」
広い芝生の庭に、うらうらと春の日が照り、白いエプロンをかけたメードたちが、派手な日除の下へバースデイ・ケーキや飲物を運んでいる。
どのみち、手にあうようなことではないのだ。ウラニウムのことなど、どうでもよくなり、サト子は、庭へ出て愛一郎や暁子と遊びたくなった。
「むずかしいところを切抜けたとおっしゃったようだけど、むずかしいってのは、どういうことだったんでしょう?」
「去年の七月ごろから、日本の天然ウラニウムに外国人が急に興味をしめすようになって、『二三八』しか出ない石山同然のものを三万ドルで買うというんです……間もなく、その訳がわかった……去年の三月に、ビキニで実験したウラニウム爆弾は、世界中、どこの原子炉ででも簡単に生産できる『二三八』を使ったものでした。それが日本のどこかへ落ちたとすると、三分の二以上の地域を、少なくとも三カ月の間、死の灰で蔽《おお》ってしまうから、あなたも私も……その区域にいる日本人は、どうしたって、ひとりも助からない……あの連中が買いつけにかかったのは、鉱石ではなくて鉱業権なので、じぶんらでしっかりとおさえておいて、将来、必要なときが来ても、日本人に手が出せないようにしようということだった……苗木の谷の鉱山は、こういう性質のものだと思ってください」
サト子はおかしくなって笑いだした。
「あたしは三百六十円払って、火薬庫の番人になるわけなのね」
秋川がサト子のそばへ来た。
「火薬庫の番人だから、盗まれたり火を出したりしないようにしっかりやってくれる、信用のおけるひとでなくちゃならないわけですね」
愛一郎がドアをあけて顔をだした。
「パパ、まだですか? サト子さん、お借りして、いいでしょうか」
「いいとも」
サト子はいそいそと椅子から立上ると、愛一郎と腕を組んで庭へはねだした。
日除の下のテーブルの端に、黒い紗のリボンをつけた小さな花束が一つ置いてあった。
「あの花束、なんなの?」
愛一郎は沈んだ顔つきで、
「あの席は、ぼくの誕生日に、いつも神月さんが掛けていた席なんです」
サト子は急いで話題をかえた。
「でも、カオルさん、いらっしゃるんでしょ?」
「カオルさんはパパと結婚したがっていたけど、もう、あきらめたらしい。有江さんと同じ船でアメリカへ行くんだそうです……ぼく、バカなことをしたばかりに、友だちを二人もなくしてしまった」
そこまで言うと、急に笑いだしながら松林のほうを指さした。
「暁子さん、待ちくたびれて、あんなことをしています」
むこう、松林につづく広い芝生の庭の端で、暁子が舞扇をかざしながら、楽しそうにひとりで踊をおどっているのが見えた。
ねぼけたような鶯が鳴いている。
ウラニウム爆弾だの、死の灰だの、血なまぐさい話をしたあとでは、この山の辺《へ》の静けさがなにかありがたくて、サト子は涙を落すところだった。
底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「毎日新聞」
1954(昭和29)年10月29日〜1955(昭和30)年3月24日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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