ないらしい。いそがしいひとばかりなので、鎌倉にいる新人のモデルにまで、気をくばってはくれないのだ。
おちびさんの女中が、木戸から駆けこんできた。
「お客さまでございます」
「あたしのところへ、お客さまなんか、来るわけはないわ」
「でも、そうおっしゃいました……中村吉右衛門とおっしゃる方です……」
「中村吉右衛門?……コケシちゃん、あなた、聞きちがいじゃないの?」
「奥さまにお取次したら、お嬢さまのほうだったんです……それで、奥さまが、もし市役所の税務課のひとだったら、まだ帰らないと、おっしゃるようにって」
「じゃ、広縁のほうへ回っていただいて……」
広縁の椅子で待っていると、玄関わきの枝折戸から、いかついかっこうをした、年配の男がはいってきた。
黒っぽい背広を着こんで、秋のすがたになっているので見ちがえたが、あの日の、ひとのよさそうな中年の私服だった。
「あなたでしたの……あなたが中村吉右衛門?」
「私が、中村吉右衛門です」
脳天を平らに刈りあげた、屋根職といった見かけの無骨なひとは、中村吉右衛門には、似てもつかぬものだった。
サト子は、こみあげてくるおかしさを、下っ腹のとこ
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