るのだが、身分不相応な、不時の収入に甘やかされてきた身で、いきなり、六千なにがしの給料だけで、生活してゆくことはむずかしい。生活を切りかえるにしても、右から左というわけにもいかない。それにはそれだけの準備もいれば、心がまえもいる。もういちどだけ、ファッション・モデルをやってからでも遅くはないようだ。神月はどんな話をするつもりなのか知らないが、その前に、こちらの話を聞いてみるのも無駄ではなかろう。
「どういうことだか、聞くだけは聞いてみよう」
 サト子は、思いきり悪く、町角の歩道に立って考えていたが、あいまいな身振りでドアを押すと、そろりと内部《なか》へはいった。
 カーテンで仕切った、仮縫いをする狭いところに、新人らしい、なじみのない顔が三つばかりおしあって、サト子がはいってきたのを見ると、話をやめて、いっせいにジロリとこちらへ振り返った。
「マネジャー、いないのかしら?」
 ファッション・ショウのステージから抜けだしてきたばかりというような、突飛なフロックを着た吊目の娘が、あしらうような鼻声でこたえた。
「さあ、どうでしょう……事務のひとなら、奥にいますけど」
 なじみがないばかりで
前へ 次へ
全278ページ中212ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング