、グダグダ言っていたが、愛一郎は、はねかえそうともしないので、張合いがぬけたのか、カオルは草むらに足を投げだして、煙草をすいだした。
西のほうの雲が切れ、海のあるあたりが、白い虹が立つように海光りしている。ルビー色の航空灯が明滅している江ノ島のうえの空を、定時のPAAが鼻唄のような爆音をひびかせながら、低く飛んでいる。谷間から吹きあげる湿った夜風が、いいほどに皮膚をひきしめ、霞《かすみ》がかかったようになっていた頭のなかが、はっきりしてきた。
秋川は客間でしょんぼりしているのだろう。遊びのような愛一郎とカオルの喧嘩を見ていたってしようがない。しゃがんでいたところから立ちあがろうとしたとき、サト子は、聞き捨てにならないひと言を聞いた。
「愛一郎さん、あなた、どこかへ逃げるつもりなのね」
愛一郎は、ギックリしたように、はね起きた。
「ぼくが、逃げるんだって?」
「あなたの部屋へはいって、スーツケース、見たわ……どこか、遠いところへ出かけるみたいね」
事情さえわかれば、署長の裁量で軽くすませると、警察では言っている。いま逃げだしたりしたら、むずかしいことになるのだ。サト子は、どういう
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