なかにはいると、愛一郎は、もの憂い目の色で、こちらへ振り返った。サト子は椅子に掛けながら、いきなりに切りだした。
「聞きたいことがあるのよ……泳いで行って、声をかけたとき、あなた、あのなかにいたんでしょう。なぜ、返事してくれなかったの?」
「ぼく、気が変になって、あそこで死ぬつもりだったんです」
そう言いながら、サト子の顔を見返した。びっくりするような美しい目の色だった。
「満潮になるのを待っているうちに、どんどん潮がひいて、夜があけるころには、いちばん低い岩まで出てしまいました」
サト子は、遠慮のない声で笑った。
「よかったわね」
「お礼をいいたいと思って、お寝間の窓の下に、しばらく立っていましたが……」
「そのとき、あたし、なにをしていた?」
「泣いていらしたのでは、なかったのでしょうか……それで、声をかけそびれて……」
「すんだことは、いいわ。それより、あなたに言っておかなければならないことがあるの……さっき美術館を出るとき、捜査課のひとに見られてしまったのよ。あんな騒ぎをしておきながら、平気で出歩くひとも、ないもんだわ」
美しかった目の色が消え、愛一郎の瞳が、落着きなくウロウロしだした。
「ぼく、罰を受けるようなことは、なにもしていません」
「あなた、警察へ行ってもそんなことをいうつもり?」
「もちろん、そう言ってやります」
「警察じゃ、さぞ、笑うこってしょう……悪いことをしたという自覚がなかったら、溺れるまねをしたり、洞の奥に隠れこんだりすることは、いらないわけだから」
愛一郎は、顔をあげると、抗議するような調子で言いかえした。
「でも、この世には、殺されたって、言えないようなことだって、あるでしょう……逃げ隠れしたからって、そんなふうに、かたづけてしまわれるのは、つらいな」
二十時の国電の上りが、山々に警笛の音をこだまさせながら、亀《かめ》ヶ|谷《やつ》のトンネルにつづく切取の間へ走りこんで行く。サト子の心は、一挙に東京に飛び帰り、あすからはじまる生きるための手段を、あれこれと考えながら、気のない調子でつぶやいた。
「なにを犠牲にしても、まもらなければならない名誉ってものも、あるんでしょうね……あたしには、わからないことらしいから、この話は、やめましょう。そろそろ失礼するわ」
愛一郎は、いつかの熱にうかされたような目つきになって、膝のうえにあるサト子の手をとろうとした。サト子は、嫌気になって、椅子をうしろにずらすと、愛一郎は宙に手を浮かせたまま、嘆くように言った。
「もう、お目にかかれないのでしょうか」
「あたし、あなた方のような暢気《のんき》な身分じゃないのよ。食べるために、毎日、めまぐるしいほど、キリキリ舞いをしているんです……お名刺をいただいたけど、お宅へ伺う暇なんか、なさそうだわ」
愛一郎は、力がぬけたようなようすになって、
「そんなふうに、おっしゃるようでは、パパは落第だったんですね?」
この親子は、サト子などとは、頭のまわりかたがちがうらしい。このひとの父には、間違いつづきの会話で、頭の芯がくたびれるほど悩まされたが、息子までがこんな調子では、とても受けきれない。サト子は、渋い顔になって、返事をせずにいると、愛一郎は、サト子の顔色にとんちゃくなく、
「パパは、なにか、まずいことを言って、あなたを怒らせたのでしょう……パパってひとは、そういうときには、かならずヘマをやるんだから……」
そう言いながら、四阿のガラスの囲い越しに、灯影《ほかげ》の洩れる客間のほうを指さした。
「あれを見てください……パパは参ってしまって、悩んでいるんです」
秋川は部屋のなかを歩きまわっている。カーテンに影がうつっては、また、ついと遠のく。
愛一郎を振りはなすにしても、すこしは、やさしくしてやってくれとたのんだ、秋川の情けないようすを思いだす。秋川は話の結末を案じて、椅子に落着いていることすら、できなくなっているらしい。
愛一郎は、動きまわる秋川の影を、沈んだ目つきでながめていたが、サト子のほうへ向きかえると、裾から火がついたようにしゃべりだした。
「あなたなどが、ごらんになったら、堅っ苦しい、陰気くさい人間に見えるのでしょう……むかしは元気がよすぎるくらいだったんですが、母が亡くなってから、すっかりひっこんでしまって、古い陶磁なんかばかりヒネクリまわしているもんだから、モノの言い方を忘れてしまって、たまさか、たれかに会うと、アガって、へんなことばかり言うんです……」
「あなたのパパは、よく気のつく、おやさしい方よ……アガってもいなかったし、へんなことなんかも、おっしゃらなかったわ。あなたが夕食もしないで、こんなところにひっこんでいるのを、心配していらしたようだけど……」
「あなたは、なんでも知っているく
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