子のほうへは目端《めはし》もくれず、庭の百日紅《さるすべり》の花をながめながら、大人物の風格で悠然と朝の食事をすませると、女中に食器をさげさせた。
「あなた、あたしに隠していることがあるね?」
「どういう、おたずねでしょう?」
「あなた、あたしのベッドに寝たでしょう、おとといの晩も? そして泣いたでしょう? 枕がしっとりするほど、涙をしぼりだすというのは、これゃ、ただごとじゃないわね」
 肺腑《はいふ》をつく、というのは、こういうときのことを言うのだろう。サト子は、いつもこの手でやられる。
 叔母は、じぶんだけのためにとってある、西洋種の緑色の葡萄《ぶどう》の皮を、手間とヒマをかけて丹念にむきながら、
「あたしは、あなたを、かわいいとも……好きだとも、思っているわけじゃない。ただ……」
「よく、わかっていますわ、おばさま」
「ただ、ここで、あなたがなにをしたか、聞いておきたいの」
 サト子が、だまっているので、叔母が、うながした。
「どうなの?……ここで話しにくいなら、広縁へ行きましょう、お立ちなさい」
 サト子は、ひきあげられるように座を立って、叔母のあとから広縁の籐椅子に行った。
 庭端から、澗にむいた暗い洞の口が見える。
 サト子は、近所の久慈という家にはいった空巣が、地境の生垣を越えてきて、警官に追いつめられて、崖から飛びこんで溺れて死ぬまでの話をした。月夜の海を泳いで、洞の奥へ青年の生死をたしかめに行ったクダリは伏せておいたので、全体として、生気のない話になってしまった。
「初七日に、死体があがるという迷信があるんですって? きょうは七日目ですから、警察のひとが、澗をのぞきにきたというわけなの」
「空巣が、海へ飛びこんだのは、一週間も前のことでしょう? かわいそうだと思う気持はわかるけど、一週間も、泣きつづけるほどのことが、あるんですか」
 サト子が、とぼけた。
「感じやすくて、こまりますの、おばさま」
 叔母が、せせら笑った。
「感じやすいという柄ですか。そんなひとなら、留守番に来てもらったりしないわ。このごろ、空巣がはいるので、留守居がないと、旅行に出られやしないのよ」
 サト子は、ムッとして言った。
「お出かけになる前に、そのことを言っておいてくださればよかった……垣根を越えてはいってきたひとを、近所の方かなんて、思いちがいをすることはなかったでしょう」
「それを言ったら、留守番なんかしてくれないでしょ。そこは掛引よ。それで、久慈さんのお宅、なにか盗《と》られたの」
「なにも、盗られなかったふうよ。久慈さんのお宅って、どのへん?」
「知っているでしょう? いぜん、神月《こうづき》の別荘だった家」
「ああ、そう……神月さん、あの家を売って、東京へ越したんでしたわね」
「それを買ったのは帝銀の沢村さんで、そのあとが、いまの久慈さん」
「神月さんの代には、夏のあいだ、女のひとが大ぜい出入りして、にぎやかな家だったわ」
 叔母は、気のない調子で、つぶやいた。
「神月ってのは、手もとに、いつも女をひきつけておかないと、落着けないという男だった……家のつくりにしてからが、そうなの。女たちが忍んで来れるように、みょうなところへ木戸をつけたりして……あれじゃ、空巣だって、はいるだろうさ」
 叔母は、なにか考えているふうだったが、だしぬけにたずねた。
「あなた、いま、どんな生活をしている?」
 他人のことには、いっさい無関心な叔母が、こんなことを言いだすのは、あやしい。
「あたしに、生活なんてもの、ないみたい……一日一日が、ぼんやりと過ぎていくだけ」
「なんとかモデルって仕事、月にどれくらい収入がある?」
「ショウですと、ワン・ステージ八百円、一枚、着換えるごとに、二百円。写真のほうは、ポスターが……」
 叔母は、めんどうくさそうに手を振った。
「そんな、こまかいことを聞いたって、あたしにはわからない。結局、どうなのよ」
「七、八、九と、三カ月は完全にお休みだし、あたしたちのクラスは、いい月で八千円、わるくすると、千円にもならない月があるの……若い女がダブついているのがいけないのよ」
「ちょっと、うかがうけど、それは、仕事なの? 遊びなの?」
 賢夫人だけあって、こういうやりとりになると、ひとのいちばん痛いところを突いてくる。どっちだろうと、サト子が、考えているうちに、間をおかずに、叔母が、おっかぶせた。
「そんなもの、やめちゃいなさい。はやく、お嫁に行くサンダンでもするほうがいいわ……手紙でいってやった、山岸さんの話は、どうなの?」
 山岸芳夫というのは、子供のころ、ここの澗で泳いだ「お別荘組」のひとりだった。春ごろ、日比谷の近くで会ったが、あのときの泣虫の子供が、ひとかどのおとなになって、口髭《くちひげ》をはやしているのには
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