ブルの端に、黒い紗のリボンをつけた小さな花束が一つ置いてあった。
「あの花束、なんなの?」
 愛一郎は沈んだ顔つきで、
「あの席は、ぼくの誕生日に、いつも神月さんが掛けていた席なんです」
 サト子は急いで話題をかえた。
「でも、カオルさん、いらっしゃるんでしょ?」
「カオルさんはパパと結婚したがっていたけど、もう、あきらめたらしい。有江さんと同じ船でアメリカへ行くんだそうです……ぼく、バカなことをしたばかりに、友だちを二人もなくしてしまった」
 そこまで言うと、急に笑いだしながら松林のほうを指さした。
「暁子さん、待ちくたびれて、あんなことをしています」
 むこう、松林につづく広い芝生の庭の端で、暁子が舞扇をかざしながら、楽しそうにひとりで踊をおどっているのが見えた。
 ねぼけたような鶯が鳴いている。
 ウラニウム爆弾だの、死の灰だの、血なまぐさい話をしたあとでは、この山の辺《へ》の静けさがなにかありがたくて、サト子は涙を落すところだった。



底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
   1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
   1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「毎日新聞」
   1954(昭和29)年10月29日〜1955(昭和30)年3月24日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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