ンパンを飲んでいるところがうつっている。
ジャンパーを着て、牛車で野菜を売って歩いていた坂田省吾に、こんな生活の面があるとは信じられないようなことだった。
「霞山会館の、バイヤーたちの万霊節のパーティの写真です。これはパーマー、これはウィルソン、これが坂田……この三日後に神月が自殺した……不良外人が複雑にひっかかっているので難儀しているのですが、この飛行鞄を山岸芳夫に預けたのは、このうちのどれです? ごぞんじなら教えてください」
春に寄す
亀《かめ》ヶ|谷《やつ》のトンネルを抜けると、車窓から見える景物がにわかに春めかしくなる。
晴れているくせに、どこかはっきりしない浅黄色の春の空を背景にして、山裾の農家の瀬戸に、ルビー色のめざましい花をつけた紅梅が一本、立っている。トンネルの闇におししずめられた目には、泰西画廊で見た、たれやらの「花火」の絵のように、あざやかだった。
家族連れのGIが、窓ガラス越しにカメラをむけて、しきりにシャッターをきっている。
サト子は網棚からとりおろしたスプリングに腕を通しながら、けさ、出がけにあったちょっとした出来事を思いだした。
小径づくりの植木溜《うえきだめ》に植えてあるウズラ梅やタチバナの枝に、売約済のシュロ繩が結びつけてあった。この離屋を借りた日から、ひいきにしていた花木たちだったので、名残りが惜しくて、主人にたずねてみた。
「まあ、売れちゃったの?」
「売れました」
「かあいそうに……どこへ行くのかしら?」
「北鎌倉の秋川さんというお宅へ」
「あら、そうなの」
だしぬかれたようで拍子抜けがしたが、不愉快ではなかった。
歳暮《くれ》近いころ、れいの遺産の問題で秋川に会った。秋川は、
「この問題はあなたの手にあまるようだから、私が預ります。解決するまで、途中のいきさつは、いっさい報告しませんから、あなたもこのことを頭からぬいて、考えないようになさい」
とハッキリと言い渡されたので、その日は夕食をしただけで別れたが、そのとき、なにかのつづきで、花木たちの話がでた。
帰りぎわに、秋川が味なことを言った。
「愛一郎は、久慈さんのお嬢さんと結婚するつもりでいるらしいんです……それで、東京の家は二人にやって、私は扇ヶ谷に住むつもりでいますが、よろしかったら、部屋を使ってください。いま勤めていられる川崎の鉱山研究所へお通いになるにしても、西荻窪から中央線で東京へ出るより、あちらのほうがずっと便利です……もし、いつまでも住んでくださるんだったら、これはもう、ねがってもないことですが……」
秋川が遠まわしにプロポーズしていることは、もちろんサト子も察したが、
「ありがたいんですけど、植木たちに別れるのがつらいから、やはり荻窪にいますわ」
と言いつくろっておいた。
秋川は、そんなことなら……と事もなげに笑っていたが、サト子を北鎌倉の家にひきつけるために、植木溜の植木をそっくりそこの家の庭へ移すことを、そのときもう考えていたのかも知れない……
愛一郎と暁子が鎌倉の駅口に迎えにきていた。サト子に合図をすると、愛一郎は小学生のように暁子と手をひきあいながら、車のほうへ駆けて行った。
愛一郎が操縦席におさまると、暁子はすっきりした地色の訪問着の袖を庇いながら、
「あたくし、助手」
と愛一郎のとなりのシートに辷りこんだ。
「ゆうべおそく、秋川さんから電報を頂いたんですけど」
愛一郎は、スターターを押しながら、
「きょうは公式の会合があるはずなんです」
と、こたえた。思いついて、サト子がたずねた。
「というと、おふたりの婚約のお披露?」
「いいえ……それは、またいずれ……」
暁子があどけないくらいな口調で言った。
「きょうは愛一郎さんのお誕生日なの……そして、あたくしの誕生日」
去年の冬、袱紗包みを持ってたずねてきたときは、枯葉のように萎《しお》れていたが、きょうは咲きほころびた春の花のように生々としていた。
「秋川のおじさまとおばさまも、そうだったんですって。暁子、とってもうれしいの」
愛一郎と暁子が婚約しかけていることは、秋川から聞いていた。
四苦八苦の恋愛をして、ゴールに辿りつくのも味があるが、波風をたてずに、おっとりと結びついた姿も好もしいものだ。操縦席で肩を寄せあっているふたりを見ながら、秋川のプロポーズを受入れれば、その日から、このひとたちは、じぶんの子供になるのだと思うと、うれしいような不安なような気持になった。
坂道をうねりあがって行くと、苔《こけ》さびた陰気な石の門が、唐草模様《アラベスク》の透かしのあるしゃれた鉄の門に変っている。
おどろに葎《むぐら》のしげっていた、前庭の花圃《かほ》が取払われ、秋川夫人の遺品《かたみ》を置いてあった部屋は、翼屋の一
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