うにして、笑った。
「けっきょくのところ、なにもしなかったんでしょ? 神月は、まだ生きているんだから」
 中村は、もの憂そうに、うなずいてみせた。
「なぜ、やれなかったというと、神月は、こうなることと覚悟して、私の車がうしろから突っ掛けて行くのを知りながら、逃げも、走りもしないのだ……女蕩《おんなたら》しも、女狩りも、いずれ報いがあるものと、悟ってのうえのことだと思ったら、それで、殺す気はなくなった」
 中村は、座席から腰をうかして、ガラスの仕切りを指で叩いた。運転手は、うなずくと、白鬚橋《しらひげばし》から浅草のほうへ戻りはじめた。
「神月は、相変らず、くだらない生活をしているらしいが、神月にたいするうらみは、その夜かぎり、私も忘れたし、家内も忘れた……家内は、銀座あたりで、ときどき神月を見かけるそうだが、いつ見ても、あのひとは美しい、こっちは、おばあさんになって、もう相手にもされないけど……などと、笑いながら話すようになりました」
 余談のようなことをいっておいて、だしぬけに話題を変えた。
「愛一郎ってのは、いい青年だね……あれがやっているのは、母親の生前の秘密を、他人《ひと》に知られたくないという、おとぎばなしのようなことなんだが、やろうと思ったら、どこまでもやりぬこうとする、気概のあるところが気に入った」
 愛一郎の母は、秋山と結婚するいぜんに、夏の鎌倉で神月のまどわしにかかって身を誤った。
 そのころ、神月に送った手紙の束が、別荘の大谷石の壁暖炉の、嵌《はめ》こみになったところに放りこんであることを知っていたが、どんなに頼んでも、返してくれなかった。夫人は、秋川からも、愛一郎からも、貞潔なひとだと思われていたので、手紙の所在を苦にして、二十年も悩んだすえ、最後の日に、告解の意もあって、その事実を日記に書きつけて死んだ。愛一郎は、最近、母の日記を読み、死んだ妻にたいする父の美しい追憶を守るために、母が思いを残した手紙の束を、とりかえそうと決心したものらしい。あの夜、サト子が聞いたのは、だいたい、そんなふうな話だった。
「そうなのよ。変っているけど、いい青年だと思うわ」
「アヤマチといっても、秋川と結婚する以前の出来事で、愛一郎には関係のないことなんだから、たしかに、変ってるね……あんないい息子を持っている秋川というひとが、うらやましくなったよ」
「すると、愛一郎は、なにもかも、あなたにうちあけたわけなのね?」
 中村は、うなずいた。
「もっとも、言わせるように術を施したからなんで、そうでもしなければ、なかなか口を割らなかったろう……だが、あれは、釣りだされたとは考えていないようだ」
 無慈悲な中村の横顔を見ているうちに、サト子は、手がふるえるほど、昂奮してきた。
「愛一郎が恐れているのは、美しいイメージをもっている父親に、幻滅の悲哀を味わわせたくないということなんでしょう……そんなにまでして隠そうとしている尊属の秘密を、みなのまえでさらけだしたんですか」
 中村は、苦味のある微笑をうかべながら、
「そうまでのことは、しなかった……署長と捜査主任に退ってもらって、ふたりだけの対坐でやった……山岸カオルの話で、むかし神月の巣だった久慈の屋敷へ、愛一郎がどんな目的ではいりこんだか、だいたい、わかっているんだが、久慈の顔が見たくなって、フラフラとはいりこんだなどと突っ張るのには、弱った……久慈の娘の、暁子《あきこ》ってのを呼びだして話をさせると、久慈の娘は愛一郎に惚《ほ》れているもんだから、私に会いに来てくれたんだなどと、平気な顔で偽証して、愛一郎を庇おうとするんだ」
 久慈の娘に会ったことはないが、あどけない情景が見えるようで、サト子はホロリとした。
「つらい話だわね」
「あまりかわいらしいので、扱いかねましたな……」
 浜町公園の近くまでくると、中村は腕時計を見ながら、なにか考えていたが、座席から立ってガラスの中仕切りをあけ、
「遅れたようだ、急いでくれ」
 と、運転手に命令した。
「十三時ジャストまでに、三原橋の十字路へ……ウィルソンの車を知っているな」
「知っております」
「十字路の角でパークしていて、築地から来る、あいつの車を見張るんだ。新橋のほうへ行くはずだから、キャッチしたら追尾して、汐留《しおどめ》のあたりで、左側について一分ほど並行して走ってくれ」
 車はスピードをあげると、横降りの雨のなかを、人形町のほうへ走らせた。座席へもどると、中村はサト子にたずねた。
「どこまで話したっけね?」
「あまり、かわいらしくて、扱いかねたって」
「……だが、そんなことではすましてはおけないから、私も神月の被害者だという話をした……むかし、家内がタブラカされたことがあるという話をね」
 サト子は、あきれて中村の顔を見た。
「警
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