が、こちらの気持を伝えてくれるような、うまい言葉がうかんでこない。書く気になって書きだせば、書簡紙の裏表に、十枚くらいギッシリと書きつめても、書きつくせないような深い思いがあるが、それでは、回りのおそいシヅの頭に、よけいな難儀をかけることになる。
(おシヅちゃん、ながいあいだお世話になりましたが、きょう、お別れしようと思うの。お話しするほうが、ほんとうだけど、それでは、後をひいてゴタゴタするでしょうから、手紙で……)
 溜息をつきながら、そんなふうに書きだしたが、じぶんのしかけていることの嫌らしさに気がついて、手をとめた。
 むかし、夏の鎌倉の海でいっしょに泳いだこともある、という関係でしかない大矢シヅに、ふた月ものあいだ、言いつくせぬ迷惑をかけておきながら、調子のちがう会話をするのが嫌さに、置き手紙をして、コッソリと逃げだそうとしている。
 サト子は、手紙を丸めて屑籠におしこむと、シヅにお別れをいうために、部屋を出た。
 シヅの部屋は、あいだに部屋を三つおいて、小田原町にむいた側にある。ノックをしてドアをあけると、シヅはネッカチーフで髪をキリッとまとめあげ、かいがいしくエプロンをかけて、朝の食事の支度のできたテーブルの前に、笑いながら立っていた。
「なにしてたア? ご飯もオミヨツケも、さめちゃうじゃないのよウ」
 目のクリッとした剽軽《ひょうきん》な顔を、無理にしかめながら、飯島の漁師|訛《なまり》でサト子を叱りつけた。
 歩けもしないうちから、鎌倉の澗の海で泳いでいたので、アシカのようなからだつきになった。いちど、裸でいるところを見たが、八頭身どころの段ではなく、下手なニュウ・ファッションの服なんか着せるのはもったいないような、すばらしいヌードをもっている。何年ぶりかで、鎌倉で会ったときは、くずれた花のような感じだったが、ファッション・モデルになってからは、うす濁った影のようなものが消え、皮膚までが生きかえったようになった。
「ダンナサマの席は、きょうから、窓のほうの椅子よ」
 そう言うと、ベッドと壁の間の狭いところを、猫のように身軽にすりぬけ、サト子と向きあう主婦の座についた。
 サト子は、ダンナサマの椅子に掛けながら、なんのせいで、このひとはいつも生々としていられるのだろうと、シヅの横顔をながめた。
「ゆうべおそく、あんなに酔って帰ってきて、よく元気でいられるわね。あきれちゃう」
「酒なんか、いくら飲んだって平気さ……そんなことより、あんた、気がつかない? 部屋のなか、変ったでしょ」
 なるほど、部屋のようすが変っている。化粧机のあったところに食器棚をすえ、壁の靴摺《くつずれ》の三叉《みつまた》のソケットから電気コンロを二つとってご飯蒸と味噌汁の鍋をかけ、食事の間に台所へ立たなくとも、居なりで用が足りるようにしてある。
「びっくりさせてやろうと思って、早く起きて、コッソリやっちゃった……これから寒くなるから、このほうが便利よ、ねッ」
「そりゃ、このほうが便利よ……でもね、おシヅちゃん、あたし、きょう、ここを出るわ。いつまでも、あなたのお世話になっているわけにはいかないから」
「出て、どこへ行く?」
「べつに、あてはないけど」
 シヅは、いやだアと叫ぶと、椅子から立って、ガムシャラにサト子に抱きついてきた。
 サト子は椅子といっしょに横倒しになりかけ、やっとのことで踏みこたえた。
「そんなに、あばれないで……ねえ、どうしたの」
 シヅは両腕でサト子の首を抱いて、胸に顔をうずめ、
「あたし、おこってる」
 と霞んだような声でつぶやいた。
「あんた、あたしなんかといっしょにいるの、ケガラワシイと思っているのね」
 サト子は、シヅの肩に手をまわして抱きかえしながら、
「それは邪推よ……あなたが、あんまり気をつかうので、居づらくなったの。こんなに迷惑をかけるのは、イワレのないことだし、それに……」
 シヅは、サト子の胸から顔をはなすと、大きな目で額ごしにサト子の顔を見あげた。
「イワレはあるのよ……あたしが飯島の澗で泳いでいたころ、神月の別荘へ来る女たちや、山岸のカオルなんて、ちくしょう、あたしがそばへ行くと、臭い臭いっていやがった……お別荘組のなかで、あたしと遊んでくれたのは、サト子さんだけだったわ……あなたは、なんだとも思いはしなかったのでしょうけど、飯島の蟹糞《かにくそ》には、あんたは、死ぬまで忘れられない、なつかしいひとだったのよ」
 シヅは、サト子の膝からおりると、おとなしく椅子に戻りながら、
「ファッション・モデルなんて、苦労も面白味もない、ツマラナイ仕事だけど、帰れば、あんたがいてくれると思うと、ひとりでにハゲミがでるの。あんたの世話をしたり、かばってあげられると思うと、うれしくて、ポーッとしちゃう……あんたは、こ
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