に、そうしていることにも耐えられなくなり、椅子から立って、広くもないアパートの部屋のなかをウロウロと歩きまわった。
 つわものどもの夢のあと……もとは、連れこみ専門のホテルだったが、いまは「ヴェニス荘」という、女たちだけのアパートになっている。
 ベッド・カヴァーの色も、スタンドの笠の色も、なまぐさいほど、なまめかしい。いぜんは、花々しい朱だったのだろう。それが日にやけて、灰色になったベッドのそばの壁紙に、女の手蹟《て》でいろいろな落書がしてある。いまの代の主人が消そうとしたらしいが、彫るように鉛筆でニジリつけてあるので、文字のかたちが、はっきりと残っている。
(石のベンチは冷たい……木のベンチは湿っぽい……秋の逢引《あいび》き)
 詩のようなものを、三行にわけて書いている……こんなのもある。
(神さま、売れば売れるものを、ひとつ、カラダのなかに持っているというのは、なんという不幸なことでしょう)
 ここがまだホテルだったころ、そういう女のひとたちが、どんな思いでこれを書いたのだろう。落書の文字と文字のあいだから、やるせないためいきが漏れてくるような気がする。
「売れば、売れるものを……」
 読んでいるうちに、笑いだしてしまうこともあるし、キザだと思って、顔をしかめることもある。そのときどきの気分で、感銘もさまざまだが、この二三日、意味もない壁の落書の文句が、身を切るような実感で心に迫ってくる。
 西荻窪の植木屋の離屋は、間代をためて追いだされ、行きどころがなくて困っていたとき、大矢シヅにこのアパートに連れこまれ、底抜けにひとのいいシヅに養われるようになってから、もう二ヵ月になる。
「他人に甘えるのは、いい加減にしておけ」
 ベッドの裾に腰をおろしながら、心をはげますように、サト子は、大きな声でつぶやいた。
 このアパートに連れてこられた日、大矢シヅが言った。
「おなじ部屋じゃ、いやでしょ。あいた部屋があるから、部屋はべつにするわね」
 シヅは、ウィルソンというビニロン会社の東京代理店のアメリカ人にかわいがられ、そのヒキで、会社の専属のファッション・モデルになった。横須賀でやっていたようなショウバイは、キッパリとやめたと言っているが、モデルの仕事だけでは、友だちを養っていけるほどの収入のないことは、サト子がよく知っている。ウィルソンというアメリカ人と顔をあわせたことはないが、夜おそく、やってくるようなこともあるらしい。
 どんなに困っても、シヅのところまで落ちこむはずはないと、サト子は、じぶんを信用しているが、じぶんを身ぎれいにしておくために、いやなことをひとにやらせ、他人の犠牲において、ぬくぬくと暮しているというのは、どういうことなのだろう。
 シヅは、ゆうべもひどく酔って、夜中ちかくに車で送られて帰ってきた。着ているものを脱がせて、ベッドへおしあげるので、サト子は大汗をかいた。
 骨折りを嫌《いと》うのではない。居たたまらなくなっているのは、もっとほかの事情だ。どんなに酔って帰っても、シヅは早く起きだして、仕事をさがしに出るサト子のために、食事をつくってくれる。見るからに辛そうなときでも、ニコニコ笑いながらやっている。そういうことが重なって、やりきれない心の負担になった。
 サト子は、シヅにお別れの手紙を書くつもりで、衣装戸棚へ化粧箱をとりに行った。
 十月はじめの長雨で、湿気のしみ通った化粧箱が、棚の中段にチョコンと載っている。外套掛《がいとうか》けには、袖口のすりきれた薄地のコートが、仕留《しと》められたケモノの皮のように、あわれなようすでグッタリとつるさがっている。間代のカタに、持物をおさえられてしまったので、身につくものといえば、上と下が色のちがう古ぼけたセパレーツと、コートと化粧箱だけ。
 夏の終りに、秋川の家で受けた心のこもったもてなしのことを、フト思いだす。
「あの約束も、まだ果していない……」
 東京へ帰ったら、いちど秋川をたずねると、愛一郎と約束をしたが、こんなようすになりはてては、とても出かけて行く気にはなれない。みじめになって、心が傷つくだけのことだから。
 霧がうごき、上げ潮の黒い水の色があらわれだしてくる。ポンポン蒸気が、待っていたように、窓の下の掘割へあがってきた。
 しばらく怠けていたが、きょうからまた都会の雑踏のなかで、無慈悲な肱《ひじ》や拳《こぶし》で突きまくられながら、職安を回って仕事を捜して歩かなくてはならない。
「仕事が無かったら、今夜は、どこで寝るのかしら」
 秋ざれの寒むざむしい町のなかを、宿るあてもなく歩きまわるのは辛いことだが、友だちというのでもない大矢シヅの世話になっているより、よほどサッパリする。
 化粧箱から書簡紙と鉛筆をだすと、窓ぎわの机の前にすわって手紙を書きかけた
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