あなたも私も
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)渚《なぎさ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)扇《おおぎ》ヶ|谷《やつ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
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  クラゲの海

 夏は終ったが、まだ秋ではない、その間ぐらいの季節……
 沖波が立ち、海はクラゲの花園になっている。渚《なぎさ》に犬がいる。子供がいる。漁師が大きな魚籃《ぎょらん》をかついで、波うちぎわを歩いている。
 秋波のうちかえす鎌倉の海は、房州あたりの鰯《いわし》くさい漁村の風景と、すこしもちがわない。
 飯島の端《はな》にある叔母の家の広縁からながめると、むこう、稲村ヶ崎の切通しの下までつづく長い渚には、暑い東京で、汗みずくになって働きながら夢想していたような、花やかなものは、なにひとつ残っていない。
 愛憎《あいそ》をつかして、サト子は、ぶつぶつひとりごとを言った。
「風景だけの風景って、なんて退屈なんだろう」
 ことしの夏こそは、この海岸でなにかすばらしいことが起こるはずだったのに、叔母にはぐらかされて、チャンスを逃してしまった。
 鎌倉に呼んでもらいたいばかりに、春の終りごろから、いくども愛嬌《あいきょう》のある手紙を書いたが、今年はお客さまですから、とお断りをいただいた。
 この家をまるごと、ひと夏、七万円とか十万円とかで貸していたので、お客さまうんぬんは、お体裁にすぎない。
 あきらめていたら、夏の終りになって、迎いがあった。
「これからだって、面白いことは、あるにはあるのよ。いいだけ遊んでいらっしゃい」
 思わせぶりなことを言い、留守番にした気で、じぶんは、こけしちゃんという、チビの女中を連れて熱海か湯河原かへ遊びに行ってしまった。
 なにをして、どう遊べというのか。犬と漁師の子供では、話にならない。土用波くらいは平気だが、海いちめんのクラゲでは、足を入れる気にもなれない。
 こんなことなら荻窪の家に居て、牛車で野菜を売りにくる坂田青年でも、待っているほうがよかった。色は黒いが、いい声で稗搗節《ひえつきぶし》をうたう。
「おれァ、お嬢さん、好きだよ」
 などと、手放しでお愛想を言ってくれる。
「泣いて待つより……」
 退屈にうかされて、サト子は、稗搗節をうたいだした。『枯葉』などという、しゃれたシャンソンも知らないわけではないけれど、稗搗節のほうが、今日の気分にピッタリする。
「野に出ておじゃれよ
  野には野菊の花ざかりよ……」
 調子づいてうたいまくっていると、地境の生垣《いけがき》の間から大きな目が覗《のぞ》いた。
「あんなところから覗いている」
 すごい目つきで、サト子が地境の生垣のほうを睨《にら》んでやると、それでフイと人影が隠れた。
 名ばかりの垣根で、育ちのわるい貧弱なマサキがまばらに立っているだけだが、その前の芙蓉《ふよう》が、いまをさかりと咲きほこっているので、花の陰になって、ひとのすがたは見えない。
 女ではない、たしかに男……灰色のポロ・シャツを着ているらしい。
 生垣のむこうは、となりの地内だから、なにをしようと勝手なようなもんだけれど、じっと垣根の根もとにしゃがんでいるのが、気にかかる。
 サト子は籐椅子《とういす》から腰をあげると、座敷を横ぎって、裏庭にむいた濡縁の端《はし》まで行った。
「なにか、ご用でしょうか」
 生垣のむこうから、霞んだような声が、かえってきた。
「いえ」
「あいにく、叔母はおりませんけど、あたしでわかることでしたら」
 芙蓉の花むらのうえに、白っぽい男の顔があらわれた。
「どなたもいらっしゃらないはずなのに、歌が聞えたもんですから……」
 いまの稗搗節を聞かれてしまった。今日はうまくうたえたほうだが、自慢するようなことでもない。
「お聞きになった? あんな歌、うたいつけないんで、まずいんです」
 花のうえのひとは、ほんのりと微笑した。
「なにをおっしゃいます。あまりおじょうずなので……」
 第一印象は童貞……あてにはならないが、そういった感じ。
 二十一二というところか。男にしては、すこし色が白すぎる。ぽってりと肉のついた、おちょぼ口をし、かわいいくらいの青年だ。遠目に見たところでは、中村錦之助の兄の芝雀《しばじゃく》に、いくらか似ている。
 おとなりは山本という実業家の別荘だが、こんな青年がいるとは聞いていない。たぶん夏の間借りの客なのだろうが、日焼していないのが、おかしい。
 やっと、思いあたった……
「叔母が言っていた、あのひとなんだわ」
 近くの結核療養所にいるすごい美青年が、
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