隙《すき》のない顔になって、
「でも、きょう、重大な用談があって、いらしたんでしょう?」
「用なんか、ないのよ。なんということもなく、ちょっとお寄りしただけ……」
カオルは、せんさくする目つきで、サト子の顔色をさぐりながら、
「あたしに、そんな挨拶をなさるのは、ムダよ。苗木のウラニウム鉱山の話なら、よく知ってるから……四日ほど前、パーマーや芳夫なんかといっしょに、熱海ホテルで、叔母さまにお逢いしたわ。坂田省吾という青年にも……」
坂田省吾というのは、荻窪や阿佐ヶ谷のへんを清浄野菜を売って歩く、色の黒い朴訥《ぼくとつ》な青年で、去年の夏ごろからの馴染みだった。忘れたころに不意にやってきて、サト子が借りている植木屋の離家の前で牛車をとめ、縁に掛けて、半日ぐらいも話しこんでいく。
カオルが熱海で叔母に逢ったのは、ふしぎはないが、木の根っ子のようなモッサリした坂田青年が、熱海ホテルなどにあらわれるとは、考えられもしないことだった。
「坂田省吾って、青梅《おうめ》の奥で清浄野菜をやっている、あの坂田省吾のことかしら」
「ええ、そうよ。苗木の谷の鉱業権を買ったという、坂田省吾のことよ。きょう、あなたがいらしたのも、ウラニウムのことなんでしょう?」
「ウラニウムって、なんのことなの」
「秋川のところへ、話を持ちこむのは、賢明よ。十三億という金を、右から左へ動かせるのは、いまのところ、秋川ぐらいのもんだから」
奥につづくドアから、秋川がはいってきた。
「無人《ぶにん》の家で、ろくな、おもてなしもできませんが、どうか、夕食を……カオルさんも」
カオルは、すらりとソファから立って、
「あたし、失礼するわ。年忌《ねんき》のお斎《とき》なんか、まっぴらよ」
そう言うと、足でドアをあけて、あとも閉めずに部屋から出て行った。
間違いつづき
留守居を置いてあるだけ、と言っていた。材料持ちで、ホテルからでもコックを呼んで支度をさせたのだろうか。明るい吊灯《つりとう》の下の食卓にならんだ酒瓶や料理の数々は、簡単なものではなかった。
食べものは、食後の菓子まで食卓に出そろっている。たがいに給仕をしながら、やる式らしいが、食器はふたりの分しかなかった。
「愛一郎さんは?」
「愛一郎は、失礼するということでした……一週間ほど前から、みょうに元気がなくなって、食べたがらないで、困りま
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