白と赤の蓮《はす》が咲いていたころのことを、ごぞんじでしょうな」
「知っています」
「この池も、むかしは美しかったが、杉苔がふえて、池つづきのようになってしまった」
 のどかな話しぶりから推すと、愛一郎の父は、一週間ほど前、飯島の澗の海のほとりで、息子がえらい騒ぎをやったことを、なにも知らないらしい。
「むかしの鎌倉はよかったが、戦後は、ようすが変って、なじみのうすい土地になってしまいました……私も、扇《おおぎ》ヶ|谷《やつ》に家をもっていますが、留守番をひとりだけおいて、荒れるままにほうってある。まいとし、秋、これとふたりで、亡妻の墓参りに来るくらいのもので……それで、いまお住いになっている飯島のお宅は?」
「叔母の家ですの……由良と申します」
「……失礼ですが、あなたさまは?」
「パパ、ちょっと……」
 哀願するように、愛一郎が父に呼びかけた。
 詰りきった表情をし、興奮して肩で大きな息をついている。叔母の家の縁端で、三人の警官に追いつめられたときのあの顔だった。
 愛一郎という青年は、これほどの緊張にも耐えられなくて、なにもかも、父に告白する気でいるらしい。空巣のように、他人の家へはいりこんだにしては度胸がなさすぎる。サト子は、靴の先で、すこし強く、愛一郎の脛にさわってやった。
「足があたったわ。ごめんなさい、痛かったでしょう」
「いいえ」
 こちらの意志が通じたらしい。のぼせあがったような目の色が、それで、いくぶん落着いた。
 父が息子にたずねた。
「なにを、いうつもりだった?」
「こんなところで、お名前を伺ったりするのは、失礼だから……」
 やれやれ、どうにか切りぬけたらしい。
「失礼だったかな」
 父親は、わからぬなりに笑顔になって、サト子のほうへ向きをかえ、
「あなたは、あそこに並べてあるようなものを、よほどお好きとみえますな……この展覧会で、きょうで三度、お目にかかっているわけですが……」
 そういうと、名刺をだして、テーブルのうえにおいた。
「これが、お名前を伺うなといいますから、伺わずにおきますが、お近づきのしるしまでに、名刺をさしあげておきます」
 秋川良作……東京の住所と番地が、小さな活字で片付けてある。
「東京へお帰りになったら、いちどお出掛けください。ガラクタも、いくらかは集めてありますから」
 このへんが、潮どきだ。カウンターのうえの時
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