いただきましょう」
足もとのスーツ・ケースを顎でしゃくって、
「当座困らないようにと思って、西荻窪へ行って、あなたの身のまわりのものを持ってきました」
サト子は腹をたてて、底のはいった声でたずねた。
「あたしをどこへ連れて行こうというの?」
「麻布に適当な家を見つけておきましたが、お気にいらなかったら、お望みのところへご案内します。箱根でも、熱海でも……」
「あなたなんかと、そんなところへ行くと思う?」
芳夫は、ふむと鼻をならすと、なんともいえない複雑な笑いかたをした。
「その考えかた、通俗ですね……あなたには、ぼくってものがまるっきりわかっちゃいないんだ」
そういうと、感慨をとりまとめようとでもするように、煙草をだしてゆっくりと火をつけた。
「子供のころ、ぼくはあなたほど好きなひとはなかった。あなたのそばへ行くたびに、胸をドキドキさせていたもんです。そのときの印象は、いまでも心のどこかに残っているが、ぜひともあなたに愛されたいとも、結婚したいとも思っちゃいないんですよ……位取りがちがうんだ。あなたはあまり立派すぎて、ぼくの手に余るんですよ。あなたと結婚したら、ぼくの半生はひどく窮屈なものになるでしょう。それはもうわかっている。ぼくが結婚する相手は、あなたより二ポイントほど下った、平凡な女で結構です……ともかく、ぼくには保護感情みたいなものがあって、しきりにたれかに奉仕したがっているらしい。いまのところ、それがあなただというだけのことなんだから、誤解のないようにねがいたいです」
車は青山一丁目のあたりを走っている。芳夫は脇窓から町並をながめながら、
「笄町《こうがいちょう》へやってくれ」
と運転手に言った。
「よけいなことを言うなよ」
芳夫が運転手を叱りつけると、車は急に勢いづいて、墓地の間の道を麻布の高台のほうへ走りだした。
「いま、家をお目にかけますが、ほかに、なにかお望みがありますか」
「仕事の口が二つあったんだけど、どちらもうまくいきそうもないの。あなたがアラディンのランプを持っているなら、明日からでもすぐ働けるところと、前渡金をすこしもらえるようにしていただきたいもんですね」
芳夫は脇にひきつけていたPAAの空色の飛行鞄《エア・バッグ》のジッパーをあけて、中のものを見せた。サト子がのぞきこんでみると、緑色をした外国の紙幣らしいものが束になっ
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