思い、ハンド・バッグにしまいこんだ小切手を出して、テーブルのうえに置いた。そうして、心の中でつぶやいた。
「これで、また文なしになった、がっかりだわ」
 神月は取るでもなく取らぬでもなく、小切手を指先でもてあそびながら、
「ここへ置いたって、返したことにはならない」
「その紙切れを、紙入れにしまいこめば、それでいいんだ。サト子さんをシアトルへ連れて行って、アメリカの鉱山法で、アチコチしようという企画は、見込みがないものと思ってくれ」
 神月は愛一郎に妙な目配せをしながら、
「愛さん、パパは病気らしいよ……早く帰って、おやすみになるように、言ってくれ」
 愛一郎は睫毛《まつげ》が頬に影をおとすほど深く目を伏せ、石のようにじっとしていたが、そのうちに手をのばして、そっと秋川の腕にさわった。
「パパ、帰りましょう。ぼくたち、お邪魔してるらしいから」
 秋川は、愛一郎の手をとると、小さな子供にでも言うような、やさしい口調でささやいた。
「いま帰ると、サト子さんがつまらない目にあう……知っているはずだね?」
「知っています」
「聞きたいのだが、なんのために神月君に気がねをしたり、恐れたりしなければならないんだ? お前がたれよりも好きだと言っているサト子さんを見捨ててまで、神月君を庇いだてしなければならない義理があるのか」
「ぼく神月さんに借りがあるんです」
「借りというのは……金のことか?」
 愛一郎は祈るように目をとじた。
 神月にどうにもならない負債があることをサト子は知っているので、どういうおさまりになるのかと思って、気が気でなかった。
 秋川は額を曇らせて、じっと考えこんでいたが、間もなく笑顔になって、愛一郎にうなずいてみせた。
「それは、パパが払ってあげる」
「なぜ、ぼくがそんな借りをつくるようになったか、理由を聞かないでも?」
「聞くなと言うなら、聞かなくとも、いい」
 愛一郎の顔に、ほっとしたような色が浮んだ。そのとたんに、涙が筋をつくって頬につたわった。
 秋川は、みえも張りもなく愛一郎の肩を抱きながら、
「子供の借金を、オヤジが払うのは、あたりまえのことだ。その話は、パパと神月君できまりをつけよう。それで、いいね?」
 愛一郎がうなずいた。
 ボーイが秋川に電話だと、つたえた。秋川は立って行ったが、しばらくして戻ってくると、ラウンジの入口へサト子を呼んだ。

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