貧乏にしておくのはよくないから、君のまわりのひとたちを保護する意味で、今日まで君の生活を見てきた……うちあけたところは、そうだったんだ」
マニキュアをした美しい手を、神月は目の前でうちかえしてながめ、
「君の家のほうへ、足をむけて寝たことはないんだよ、これでも」
「君の生きているあいだは、生活の苦労はさせないつもりでいる。贅沢を言いだせば、きりのないことだが、すくなくとも、現在はさほど不自由はしていないはずだ……人生の冒険も波瀾も避けて、平安に暮して行きたいと、いつか君が言っていた。こんなあくどい仕事に手をだそうとは、思いもしなかった」
「おれが、なにをしているというんだね?」
「いま、やりかけていることは、体のいい誘拐みたいなものだと言っているんだ……サト子さんは孤独な境涯にいるが、それでも、まちがいのないようにと心配している人間も、いくらかはいる。そういう中から、サト子さんをひきだして、無理にも孤立させようというのは、どういう企みによることなんだ?」
神月は、空うそぶいたまま返事をしなかった。
「君の最近の行状を見ていると、ひどく日本人ばなれがして、第三国人になったのかというような気がするよ……苗木のウラニウム鉱山のことだが、個人の利福の問題はべつにしても、国民全体に損失を与える結果になることを承知しながら、平気な顔で、つまらない奴らのお先棒をかついでいる」
神月は、目にしみるような白いハンカチを抜きだすと、いいようすで口髭をぬぐいながら、
「そんなにまで、水上嬢に肩を入れているのか。そういえば、死んだ、夫人《おく》さんの若いころによく似ているよ、こちらは……邪推だったら、ゆるしてもらうが……」
秋川は頬のあたりを紅潮させると、愁《うれ》いを含んだ複雑な表情になって、
「つまらないことをいうね。よくよく下劣なやつでも、そんな低音は出さないもんだが」
「こちらが、亡くなった夫人さんの若いころに似ていると言ったのが、そんなに気にさわったのか……言いあてたらしいね、悪かったよ」
秋川はそれを聞き流して、サト子のほうへ向きかえ、
「いまの小切手を神月君に返してください、事情はあとで申します」
きょうは、つぎつぎと劇的な場面がひきおこる。サト子には、それがなにと理解することはできなかったが、中村が言ったことなどを思いあわせ、なにかこみいった事情があるのだろうと
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