ないわ……その話はべつにして、あなたが行きたいと言えば、秋川なら、よろこんでお金を出すでしょう……あなた、秋川をどう思っているの?」
「どうって、考えたこともないわ」
「本音《ほんね》なら、それがあなたの憂鬱の原因なのよ。見抜いたみたいなことを言うようだけど、あなたの神経衰弱《ノイローゼ》は、生活のなかに、大切なものが足りないせいなの。精神を高めて、生きて行く張りあいを感じさせる、希望といったようなものが……」
「よく、わからないけど……」
「欺《だま》されたと思って、恋愛をしてごらんなさい。憂鬱なんか、いっぺんに消しとんでしまうわ……手近なところで、秋川にうちこんでみたらどう? 秋川に金をだしてもらって、外国へでも行って来ると、むかしのような、元気なサト子さんになること、うけあいよ」
サト子は、精いっぱいにつとめていたが、我慢しきれなくなって、思いきり手強くはねつけた。
「いろいろとおっしゃってくださるのは、ありがたいんですけど、間もなく、お祖父さんが帰ってくるので、日本を離れるわけにはいかないのよ」
「水上さんが帰ってくるんだって?」
「飯島の叔母は、庭先へさえも寄せつけないでしょうから、あたしが引取って、世話をしてあげるほかないの」
カオルは、取りはずしたような表情でサト子の顔を見ていたが、口もとに、なんともつかぬ笑皺をよせて、
「そんなお便りでも、あったの?」
と、あわれむような調子で言った。
「有江の名で、電報、よこしたわ。ニューグランドで会いたいなんて」
「あなた、どうかしているわ。水上さんが、自身でいらっしゃるなら、代理のひとをよこすことはないでしょう。そうじゃなくって?」
そう言われれば、それにちがいない。飯島の叔母に知られたくないので、有江の名で電報をよこしたのだとばかり思いこんでいたが、都合のよすぎる解釈だったらしい。
シアトルからきた電報を見た瞬間、サト子は、たぶん貧乏に疲れて帰って来るお祖父さんを、西荻窪の植木屋の離屋にひきとって、根かぎり世話してあげようと思った。じぶんはもうひとりではなく、お祖父さんといっしょに暮してゆけるという、楽しい希望に鼓舞され、どんなにでも働いてやろうと意気ごんでいたが、お祖父さんに会うという喜びは、これでまた、当分、おあずけになったと思うと、気持の張りがなくなって、急にがっくりなってしまった。
「そのく
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