ていなかったの」
「それと、ここを出るってことに、どういう関係があるの?」
「本気になって仕事を捜さないのは、食べる心配がないからだと気がついたのよ……こんなこと、みじめだわ。きょうから、職安を回って、もしあったら、どんな仕事でもやって、性根をとりもどすつもり」
「そうしたいなら、気のすむようにしなさい……いっしょに行ってあげたいけど、きょうは出たくないの……その窓から、のぞいてごらんなさい。河岸《かし》っぷちに、神奈川県の警察部の自動車がいるでしょ……あたし、なんだか、恐いのよ」
正面玄関《フロント》の土間で、髪をとばされないようにネッカチーフで頬冠《ほおかむ》りをすると、ガラス扉にうつった姿は、それなりにショウバイニンのスタイルになっている。
「おお、いやだ」
アパートの前歴を知ってから、ここを出入りするたびに、なんとなく身がちぢむ。他人の見る目など、どうでもいいようなものだけれど、生活の自信をなくしているせいか、気持の弱りで、つい、そんなことを考えてしまう。
アパートの門を出ると、サト子は、河岸っぷちにとまっている車のそばへ行って、車房のなかをのぞいてみた。そんな気がしていたが、案のじょう中村だった。ダブル・カットのスーツを着て、腕組みをし、うしろに凭《もた》れて目をつぶっている。眠っているわけではあるまい。こんなようすをしているが、これで、見るものはちゃんと見ているのだ。サト子は、脇窓のガラスを、指先でコツコツと叩いた。
「中村さん……」
中村は薄目をあけると、腕組みをといて脇窓をあけた。
「やあ、しばらく」
苦味走って、とっつきにくい感じだが、目を細くすると、笑ったような顔になる。
「カオルさんから聞いたんだけど、あなた、県庁の警察部へ戻ったんですって?……ここは少なくとも東京でしょう。こんなところでタヌキをつかったりして、たれを待伏せしているんです?」
中村は、気《け》もない顔で、こたえた。
「あなたを」
中村という人物は嫌いではないが、こういう筋合いの人間に待伏せされるのはうれしくない。サト子が不機嫌な顔で立っていると、中村は笑いながら脇扉《ドア》をあけた。
「お乗んなさい、お送りしましょう。話は、車の中でもできるから」
あの夜、秋川の家の庭で中村と約束したことがあったが、とうとう果さずにしまった。たぶん、その話なのだろうと思って、
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